法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

ちゆ12歳は、吉見義明『従軍慰安婦』に対して「のちに否定された記述も多く」と評していた

ちゆ12歳はネトウヨだった

ふつうに韓国ネタ、朝日新聞Disネタが屈託なく出てくる
当時は自分も何とも思ってなかったし、ふつうに人気コンテンツだったことを考えると当時の空気にゾッとする

ネトウヨ」という言葉の選択はともかく*1はてなブックマークにおいて、具体例として「新しい歴史教科書をつくる会」の応援などが指摘されている。
はてなブックマーク - ちゆ12歳はネトウヨだった

id:gabill 確かに今見ると結構右だね。 http://tiyu.to/permalink.cgi?file=news/01_02_21

id:houjiT これgabil氏の提示してる記事見てから読んだほうがいいな。トップ人気の「disっただけで」なんてヤワなものじゃねーわ。普通の中国嫌いとかじゃ、人間指さして「ボウフラ」なんて言わんわ。

ちゆ12歳の作者自身の現在の考えは知らないが、これが受け入れられて人気サイトとなった2001年の「空気」は、たしかに省みられるべきインターネットの歴史だろう。


他に思いあたるものとして、2005年に朝日新聞記者のブログが炎上した時の論評がある。2010年のエントリに記録していたので、それを再掲しておく。
過去は生きている〜従軍慰安婦論争を例にして〜 - 法華狼の日記

「しがない記者日記」騒動 - ちゆ12歳

記者さんのオススメ文献は吉見義明教授の「従軍慰安婦でした。
 のちに否定された記述も多く、少なくとも、このデリケートな歴史の問題に対して「これ1冊でOK!」なんて本ではないのですが……。
 そもそも、そんな有名すぎる文献は読んだ上で反論している人がほとんどだと思いますが、記者さんの頭の中の「右翼」はよほど不勉強みたいです。

従軍慰安婦』は1995年初版であり、最新の研究が反映されていないものの、はたして「否定された記述」などどれだけあるだろうか。
はっきりいえば従軍慰安婦否定論者なんて不勉強な人しかいない。歴史を勉強すれば否定論者になるはずがないから。納得できない人のため具体例をあげておくと、たとえば否定論者として現在も活動している西岡力会長は白馬事件を1998年まで知らなかったという。その3年前に出た『従軍慰安婦』は薄い岩波新書で、しかも吉見教授の文章は平易で読みやすい部類だというのに、全く読み込んでいなかったのだ*10。
そしてこの『従軍慰安婦』は、確かに深く歴史を知るには物足りないし、証言や資料の充実は他の書籍に譲るが、取り上げる問題の視野が広く、問題設定が的確であるため、否定論者を批判するためには今なお最適の1冊だ。

*10:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20100426/1272317045

上記エントリを書いてから約十年がたつが、その間も『従軍慰安婦』を読まずに否定していそうな光景や、明らかな誤読がされている光景を何度となく目撃してきた*2


たぶん、ちゆ12歳はインターネットの情勢を読むことにたけていて、「デリケート」な話題をネタにしながら炎上しにくい立場をうまく選んでいたのだろう。それは正しさより情勢を優先する態度に他ならないわけだが。
それではインターネットの情勢が当時と現在でどれほど変わっただろうか。従軍慰安婦問題に限れば、2007年の米国下院決議あたりが分水嶺だった記憶がある。日本の有力者が全面的に反論しようと動いたことで、逆に世界各国で同じような決議が採択される結果となった。
いまだ従軍慰安婦問題について国内外で矮小化や忘却がねらわれつつも、さすがに前面的で全面的な否認をするような動きが弱まったのは、国内世論で勝利するだけでは諸外国には通用しないと広く痛感されたためだろう*3

アニメの中の携帯電話(追補編)

非常に興味深いアニメ史エントリを読んだ。
初めてスマートフォンが登場したアニメは何か - カトゆー家断絶
アニメの中の携帯電話(平成編) - カトゆー家断絶
その参考リンク先では言及されつつも、エントリでは採用していない情報をいくつか紹介したい。


まず、携帯電話に近いサイズと機能の「電話」がアニメに初登場したのは、たぶん『ドラえもん』の「糸なし糸電話」だろう。
原作では1985年の短編が初出で、家族が占有している固定電話のかわりに登場した。糸電話同士でしか話せないので位置づけはトランシーバーに近いが、呼び出し音が大きくなりつづける機能に先見の明を感じさせる*1

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そして同年に連載がはじまった『大長編ドラえもん のび太と鉄人兵団』で、ドローンのように飛行して会話を盗み聞きする描写があり、1986年にアニメ映画化された*2

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さすがに秘密道具は冗談として、劇中で一般人の子供が普通に携帯電話を用いる描写は、1997年12月に放映された『勇者王ガオガイガー』の第44話が印象深い*3

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多趣味な中学生の少女が、事件を通報する場面で折りたたみ式携帯電話を使う。『ウルトラセブン』を連想させるデザインで、パロディギャグに近い使い捨て描写だが、メインストーリーにからまないからこそスタッフが遊びで入れることができたのだろう。
ちなみに、主人公の小学生男子が秘密組織から連絡用にわたされた電子機器はポケベル。より視聴者の身近に感じる憧れの技術として採用されたのだと思うが、過渡期らしい逆転が興味深い。


そして『勇者王ガオガイガー』とスタッフを同じくする1999年の『ベターマン』において、主人公の少年少女が初回から一般的に携帯電話を使い、ひんぱんに連絡をとるようになる*4

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放映時に一般社会で定着した方法がなかったためか、太腿のベルトにはさんだり、首からぶらさげたり、携帯のしかたはキャラクターにあわせて多様だった。
劇中の設定年代は2006年だが、そう思うと最新機器にしては液晶表現が古い。そもそも特定の機種をモデルとしていないようで、独自に技術を発展させた作品世界を構成する小道具のひとつくらいの位置づけだった。


野次馬が携帯機器で撮影しようとする描写は、2007年の『河童のクゥと夏休み』より少し早い作品として、2006年10月の『コードギアス反逆のルルーシュ』第1話があった*5


登場するガジェットは回転式、折り畳み式のガラケー的なものが混在している*6。異なる歴史を歩んだ世界の物語だが、ごくごく一般人が携帯電話をあやつることで変化した社会を描いた作品のひとつといえるだろう。
ひとりは撮影しながら誰も通報しないのかと文句をいう、わかりやすい衆愚描写だ。しかし視聴した当時、すでに野次馬が事件を撮影することは問題視されており、正直にいえばあざとさすら感じた。
むしろ、そうした一般の映像が通報や記録にも役立つとわかった現在、撮影する大衆が批判される描写は減ってきている印象がある。

*1:ドラえもんカラー作品集 (1) (てんとう虫コミックススペシャル) 108頁。

*2:のび太と鉄人兵団 (上) (てんとう虫コミックス・アニメ版―映画ドラえもん) 103頁。

*3:CHARACTER|勇者王ガオガイガー 公式サイトでキャラクターを象徴する場面のひとつとして採用されている。

*4:ベターマン ワーズン・ワールズ (Best perfect guide) 12、14頁。

*5:コードギアス 反逆のルルーシュ | バンダイチャンネル|初回おためし無料のアニメ配信サービス9分20秒、9分30秒。

*6:事故を撮影していると示すクローズアップはスマートフォンに見えるかもしれないが、実際は次の画面右側にいる眼鏡の男性がもつ回転式。

声優しか出ていないオーディオコメンタリーは面白くない確率が高い

面白いオーディオコメンタリーをつのる匿名記事が話題になっていた。
面白いオーディオコメンタリー教えて
解説としての情報量が少なかった悪例として、細田守作品のオーディオコメンタリーがあげられていた。

細田守作品→若い役者たちとおじさん監督がきゃっきゃしている→解説が中途半端になり、互いに気をつかっているので悪ノリとしても中途半端に

たしかに、スタッフの内輪しか考えていないかのようなコメンタリーは、よほどスタッフが好きでないとつらいだろう。
スタッフのひとりの地位が高くて、周囲が誉めるだけで情報を引き出さないパターンもつらい。


しかしそれよりも、まず聞いても面白さを期待できないパターンとして、声優だけのコメンタリーがある。
声優の声さえ聞ければいいというファンのは良いかもしれないが、作品のくわしい情報は期待できない*1。そもそも声優はそういう職種なのだから。
『映画ドラえもん』の舞台挨拶に声優が登壇しなくなった謎 - 法華狼の日記

声優はキャラクターの印象を決定づける重要な仕事でありつつ、実写作品の俳優と比べても最後のしあげだけ担当する部署。声優しか参加していないオーディオコメンタリーを聞くと、作品について語れることがなくなって声優個人の雑談になってしまうことがよくある。

基本的に完成した絵に声をのせていく仕事なので、実写映画と違って、他スタッフの仕事を見聞する機会が少ない。作品について語れる情報をもっていない。アドリブにも限度があるので、声優個人の仕事が反映される余地も少ない。
作品の設定や原作との差異なども考察して演技に反映させるようなタイプの声優もいるが、たとえ主人公であってもその声優の演技がいつまでもつづくはずもなく、どうしてもコメンタリーでは語ることがつきてしまう。
やはりスタッフ自身の語りがうまいことに加えて、そのスタッフが作品の全体を知っているコメンタリーが望ましい。


化物語』以降は完全に台本を用意して声優にキャラクターを演じさせる手法も出てきたが、それが面白いとしても本来のオーディオコメンタリーとは違う役割りだろう。
ただ、実際は既存のオーディオコメンタリーにも進行台本のようなものは用意されているらしい。たとえば『劇場版 HUNTER×HUNTER―The LAST MISSION―』*2でコメンタリーの進行と台本がずれてしまったことに出演者が言及する場面があった。


ギャグアニメなどであれば画面に声優がツッコミを入れることで場がもつかと思えば、そうではない。
どんなギャグアニメでも、コメンタリーでたえまなくツッコミを入れつづけられるような作品は少ないし、ただツッコミを入れればそれで視聴者が楽しめるかというと難しいところだ。
たとえばTVアニメ『神無月の巫女』のコメンタリーを聞いたところ、たしかに明確なボケにはツッコミを入れるのだが、そこから話をふくらませることをせず、全体として雑談の域を出ていなかった。


最後に、はてなブックマークであがっていない範囲で、興味深かったコメンタリーをいくつかあげておく。
コメンタリーはかけあいするものだけでなく、監督が一人語りをするタイプのものもある。最近では『シャーロット・グレイ*3という作品で、釈明まじりに制作意図を語る内容が興味深かった。

それほど映画そのものは面白くなかったのだが、監督の説明とてらしあわせることで、どのような妥協によって映画ができあがっていったのかを知り、いくらか許容できるようになった。
また、史実を題材にして実際の史跡で撮影した作品だったので、映画から離れた小さな村の記憶すべき史実の記録として、独立して聞きごたえがあったのも収穫だった。


邦画であれば、本編とVFXの両方を山崎貴監督が手がけているからこそ、両方について語ることができた初監督作品『ジュブナイル』が印象深い。

ジュブナイル [DVD]

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邦画としては先端的なVFXを使いつつ、アナログな特撮技術も併用しているので、メイキングエピソードを聞くだけで楽しい。本編も現代を舞台にしつつ当時としては意欲的な撮影をしていて、意外なこだわりを知る楽しさがあった。
オリジナルストーリーなので、さまざまな原作を感動的に実写化しようとする後年の作品群と違って、物語における試行錯誤なども素直に興味深く聞いていられた。


かなり古い映画であれば、映画のコメンタリーとしての面白味はそこそこだが、監督自身の半生と重ねあわせて楽しめる『連合艦隊』のようなコメンタリーもある。

松林宗恵監督自身が元海軍士官であり、映画に対するコメントとは別個に、実体験の証言もいくつかあった。コメンタリーの性格上、その証言のすべてが裏づけられているとは考えにくいが、ひとつの情報として興味深く聞けたことはたしかだった。
そうでなくても、半世紀近く昔の作品コメンタリーになると、くわしい作品の情報を出演者が忘れているかわりに、当時の雰囲気を回想する証言録として興味深くなっていくパターンがある。

*1:声優自身が作品のファンとして感情移入するように語るコメンタリーは、いわゆる応援上映のような楽しみはできるかもしれない。

*2:『劇場版 HUNTER×HUNTER―The LAST MISSION―』 - 法華狼の日記

*3:『シャーロット・グレイ』 - 法華狼の日記

脅迫に言論で闘わないからと大学をクビになること以上に、表現の意図を説明できなくて編集者にボツにされることが、優先的に批判すべきことなのだろうか?

「バイアス」が一般的に悪いものだという合意すら今のインターネットでは難しいのだろうか - 法華狼の日記
上記エントリに対して、はてなブックマークid:srpglove氏が下記のようにコメントしていた。

srpglove 「喫煙描写を禁じる編集部のルールと争って負けた体験を語りながら提案していることから、このガイドラインは一種の皮肉と読むべき」じゃあ「ガイドライン」導入に無条件に賛同してる人たちをこそ批判すべきでは…?

私の解釈でいえば、全面的な禁止ほどのルールが現実化する動きでもないかぎり、優先して批判する必要があるとは思えない。
そもそもsrpglove氏のいう「無条件に賛同」がどのような想定で、「人たち」がどこにいるのか、私は知らないので批判しようがない。


念のために説明すると、下記インタビューから私が読みとった「皮肉」とは、ジェンダーバイアスガイドラインを導入するべきではないといった反語的な解釈ではない。
「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」。漫画家・楠本まきはなぜ登場人物にこう語らせたのか | ハフポスト

だったら同じように、ジェンダーバイアスにも何らかのルールを作ればいいと思うんですよ。バイアスのかかった表現については「なぜこれを描かなくてはいけないのか」と作家に説明を求めて、(編集部が)納得させられたら載せるし、納得できないものは載せない。そういうガイドラインを、他の差別的な表現に対してと同様にジェンダーに関しても作ればいい。

すでに存在するさまざまなルール、なかでも楠本まき氏が具体的に説明した喫煙描写の禁止と比較して、なぜジェンダーバイアスにはガイドライン*1がないのかという問いかけと読んだ。
その解釈を延長すれば、ジェンダーバイアスガイドライン表現の自由の侵害になるならば、すでに存在するより強固なガイドラインが優先的に批判されるだろうという挑発にもなる。


私の見た範囲では、楠本まき氏に賛成する意見のなかで、ガイドラインを署名活動などで現実化しようとする動きなどは見当たらず、せいぜい問題提起の段階にとどまっていた。
逆に、楠本まき氏に反対する意見のなかで、あくまで虚構のガイドラインよりも、現実に存在する喫煙描写などのガイドラインを優先して批判しようとする動きは見かけなかった。
あくまで一例だが、やりとりしたid:type-100氏のように、虚構の考えと現実の考えを、その実効性をまったく無視して同等にみなす意見もあった。
漫画家と法哲学者の両方が「第三者の放言」をしたとして、その内容のどちらがより悪質な抑圧だろうか?という問題 - 法華狼の日記

表現者が意図の説明を要求される虚構の抑圧と、被害者に特段の説明が要求される現実の抑圧。ひとつの表現を発表媒体に載せてもらえないことと、約束をたがえて仕事そのものが失わされること。どちらがより悪質だろうか?

はてなブックマーク - 漫画家と法哲学者の両方が「第三者の放言」をしたとして、その内容のどちらがより悪質な抑圧だろうか?という問題 - 法華狼の日記

type-100 「ツイートの考えが」でしたら概ね異議はありませんが、「発表媒体に載せてもらえない」がそんなに軽いことだとは思いませんし、「考え」でしたら虚構か現実かは関係ないでしょう。

一般的に、表現を媒体にのせる権利は編集側がもつし*2、そこで表現の意図を作家に問うことは判断の基準として不当とはいえないだろう。
type-100氏は極端だとしても、楠本まき氏への批判においては、編集が表現をボツにすることが脅迫の負担でクビにすること以上に重大な自由の侵害であるかのような反応が散見される*3
作家の側に立つならば、編集の制約などいっさいなく作品が掲載されるべきという主張は理想だろう。しかしそれがかなわない一般的な現実を無視して、提案しただけの楠本まき氏が批判されるのはなぜだろうか。

*1:また、インタビューをきっかけとしてガイドラインを導入する動きがあってとして、たとえ批判することになるとしても、楠本まき氏とは独立したものになるだろう。インタビューで楠本まき氏が提示する「ガイドライン」は、そのまま現実化したとしても、表現そのものはいっさい制約されないものになるだろうからだ。

*2:念のため、表現の現場を制約するかたちで編集権が行使されるという問題はありうる。これに関連して、作品制作を作家の主体性のみで考えるか、編集と作家の共同作業として考えるかという、それぞれ現実においても理念においても存在しうるふたつの立場の、後者で楠本まき氏が語っていることは、ここで「皮肉」という解釈を争っていることよりも、ずっと大きな行き違いを生んでいる。くわしくはエントリをあらためて説明する予定。それとは別に、編集者が決定権を行使する時に、実作業に対して充分な対価がしはらわれないという労働問題として問われる状況は考えられる。さらに、別の媒体で発表する自由が作家にはあるはずなのに、原稿を編集部が返却しないことで、一媒体への掲載拒否が事実上の全面的な表現規制として慣例が作用する問題も考えられる。

*3:偏見的表現に説明を求めることが表現規制あつかいされるところを見て、脅迫被害者に説明を求めた法哲学者を思い出す - 法華狼の日記への反応の少なさを、傍証として提示しておく。

「ジェンダー」という台詞と、漫画の細部に宿る神

漫画の一幕を抜粋するタイプの画像広告は、耳目をひく刺激的な場面をピックアップするあまり、作品のニュアンスをゆがめることがまれによくある。
togetter.com
それが広告にかぎった話ではなく、楠本まき氏の下記インタビュー記事に対しても、どうやら引用された一コマの印象が一人歩きしているところがあるらしい。
www.huffingtonpost.jp

楠本まき氏の漫画は、あえていえば「オサレ」と評されるようなタイプの作品である。インタビューで語られたような社会的メッセージを作品内の台詞でわかりやすく説明するような作風ではない。
たとえば「通り魔説教」*1と評される『クロエの流儀』のように主人公が特権的にメッセージを主張するタイプの作品ではないし、作者が在特会を当然視*2する『魔法少女プリティベル』のように作者自身のメッセージがむきだしなタイプの作品でもない。


娯楽としてのスタイルからして、雑誌にバラエティを生むための「異端」にあたる。
作家自身が感性のまま好き放題に描いているようでいて、おそらく編集の理解がなければ商業媒体に載せられにくい立ち位置だと想像できる。
dkmasashi.hatenablog.com

多分、「私達は、いろいろ人のことを決めつけて見てしまうけど、人間というのは実は分からないものなんだ」というようなことが作品全体としてのメッセージなんだろうなーとは思います。で、そういう主張を登場人物が割とストレートに言っていたりする場面もあるのですが、作者の主張を言わされているという感じではなく、この登場人物だったらこういうこと言うだろうなーという感じになっていて、そんなに嫌味には感じませんでした(少なくとも私は)。

インタビューで楠本まき氏は「ステレオタイプを描いちゃうのは、キャラクターの設定を詰めきれていないということでもある」と語り、「エプロン姿にオタマ」という事例をあげていた。
しかし、そもそも「ジェンダーバイアス」という話題に限っても自論を答えられること自体、作品の細部までこだわっているということではないだろうか。楠本まき氏は「ジェンダー」だけをテーマにしているわけではないのだから。


楠本まき氏だけではない。特にメインテーマではないのに、「ジェンダー」という言葉がひとつの枠組みとして肯定的に描写される漫画が時々ある。
一例として、『踏切時間』という漫画の第1話から引用しよう。これはアニメ化された1話に同じ描写があり、それを視聴してから原作を確認するという順序で知った。

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青春しようとする時に異性愛しか念頭になかった少女は、後輩に叱責されて素直に過ちを認める。

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この場面は、思いつきでダメな言動をしてしまう少女の性格と、しかしすぐ過ちを認められる善良さを示す重要な描写だ。それがクライマックスの伏線ともなる。作品のメインテーマではないが*3、それなりに重要な描写である。
ここでもし「ジェンダー」という概念が作り手の知識に存在しなければ、この少女は違った印象のキャラクターにならざるをえない。逆に、「ジェンダー」という言葉の知識を正確に詳述する義務はない。事実として少女の台詞は「ジェンダーとかその辺のところ」というあやふやなものだ。さらにいえば、作者は知識をもってなお表現しない選択肢もあった。
楠本まき氏がインタビューで提唱したように、作者が「ジェンダーバイアス」に自覚的になることは、こうして創作の選択肢を広げることにもつながるわけだ。

*1:【オリジナル】「\あいまいみー 87-1/ ちょぼ」/「ちょぼらうにょぽみ」のマンガ [pixiv]

*2:一人ぼっちの漫画工場 ネトウヨと言いたがる人たち。

*3:作品全体が、踏切前のさまざまな人々のドラマを点描する短いエピソードのつらなりになっている。必ずしもジェンダーステレオタイプを脱した内容というわけでもない。