法華狼の日記

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名誉棄損裁判で山崎雅弘氏と雁琳氏はどこで差がついたかといえば、相手を批判するだけの意義と根拠に違いがある

 竹田恒泰氏の主導した歴史教科書が検定を通過したことで、かつて竹田氏に名誉棄損でうったえられて完全勝利した山崎氏が*1、判決をふりかえりながらあらためて批判していた。


富山の教育委員会が、竹田恒泰氏に中高生向けの講演をさせる企画が報じられた時、私は彼の過去の差別的言動や自国優越思想を踏まえて「講師に不適格」と批判しましたが、竹田氏は私がその時に使った「人権侵害常習犯の差別主義者」という言葉が名誉毀損に当たるとして私を提訴しました。その判決です。

 山崎氏のツイートにあるように、争点となったのは学生向けの講演に竹田氏がふさわしくないという論評なので、教科書検定という話題とも合致する。独立した問題をもちだしているわけではない。
 その山崎氏のツイートを「シン・しわ枯れパパ@chanchan_papa」氏が引用リツイートし、裁判は背景や意図も見ながら名誉棄損の判断をくだしていると指摘した。


北村紗衣氏を「ポリコレリベサヨうんこ学者」と批判した雁琳氏は敗訴し、竹田恒泰氏を「人権侵害常習犯の差別主義者」と批判した山崎雅弘氏は勝訴した。2つの違いを見ると、裁判所が批判の外形だけでなく背景や意図を丁寧に見ているとわかる。最初から誹謗中傷目的のものは見破られるということだ。

 下記エントリで参照したように、どちらも名誉棄損で訴えられた側がカンパで裁判をおこなったという共通点はあるが、誹謗中傷か正当な批判かという根底が異なっていたといえる。
雁琳氏に誹謗中傷されたとして北村紗衣氏がうったえた名誉棄損裁判で、比較的に高額の賠償が認められたとのこと - 法華狼の日記

 しかし、そのような寄付金募集で加害へ同調させるような運用をしてはならないという司法の判断がくだされたわけだ。誹謗中傷してうったえられたことで注目をあつめて誹謗中傷をかさねてマネタイズしていくような問題への足止めになってくれるかもしれない。

 その上で、山崎氏の抜粋した判決を読めば、たしかに言葉の表層で裁判の勝敗が決まったわけではないことがはっきりわかる。


 しかし「シン・しわ枯れパパ@chanchan_papa」氏を引用リツイートした雁琳氏は、山崎氏との判決がことなるのは司法が左巻きに狂ってるためだと主張した。


「北村紗衣氏を「ポリコレリベサヨうんこ学者」と批判した雁琳氏は敗訴し、竹田恒泰氏を「人権侵害常習犯の差別主義者」と批判した山崎雅弘氏は勝訴した。」 この二つ並べてみると司法、明らかに左巻きに狂ってるとハッキリ分かるな。

 そして雁琳氏は名誉棄損裁判が批判の外形だけで判断されるかのような誤解から、「人権侵害常習犯の差別主義者」という表現を一方が自由につかえるかのような虚偽をふりまいた。


「人権侵害常習犯の差別主義者」はおサヨク文脈的には間違い無く社会から追放すべき悪人認定レベルの激烈な重みがあるにも拘らず、竹田恒泰対山崎雅弘裁判の判決で名誉毀損に当たらないとされてしまったことにより、奴等がこれを法的に自由に言っても良いことになっているところが本当に本当にヤバい。


「人権侵害常習犯の差別主義者」と「ポリコレリベサヨうんこ学者」のどちらが、言われた人の「社会的評価の低下」を招くのかなんて、一般的な価値観は勿論のこと、それこそ、人権!反差別!といつも絶叫しているおサヨク的価値観ならば尚更明らかなことではないだろうか。明らかなダブスタだ。

 もちろん「シン・しわ枯れパパ@chanchan_papa」氏は表現が背景や意図までふみこんで判断されたことを指摘しているし、山崎氏の抜粋した判決だけからも雁琳氏の解釈が成立しないことがわかる。

 裁判所は、竹田氏を山崎氏が「差別主義的」と論評したことに「相応の根拠」があると認めた。「人権侵害常習犯の差別主義者」という表現は穏当さを欠くものの、いたずらに揶揄や侮蔑しているわけではないと認めた。それゆえ「社会的評価を低下させるものであったとしても、公正な論評ないし意見の表明として違法性を欠く」のだと結論づけられた。
 けして「人権侵害常習犯の差別主義者」という表現が社会的評価を低下させないと結論づけたわけではない。むしろ竹田氏の社会的評価を低下させてでも、批判するだけの意義と根拠があったことが認められたのだ。


 名誉棄損という判断が表現の外形だけでくだされるかのような誤解は、雁琳氏だけではない。
 たとえば「5億円 2017@Beriya」氏の下記ツイートも誤解をまねくところだろう。たしかに相手が多用する表現に揶揄をとどめれば一般的に問題にはなりにくいが、今件には当てはまらない。


「人をクズ呼ばわりするのに法的な根拠は一切いらないと思う」とせっかく表明してくださってるんだから、「クズ」呼ばわりくらいに留めておけばよかったと思いますよ。

 法的な根拠がいらないという主張は、根拠がいらないという主張ではない。相手の言葉の強さにあわせて相手を批判すれば、一般的にも法的にも強さそのものは許容されるべきと判断されることが多いが、根拠のある批判に根拠なく反論しても良いというわけではない。
 雁琳氏が負けた一審判決を読めば、さまざまな争点で事実誤認が認定されており、ただ表現をやわらげれば妥当な批判になったというわけではまったくない。
http://www.mklo.org/mklo/wp-content/uploads/2024/04/ffdd5b80e78c62b11a9a19dbd8ffa153.pdf
 たとえば争点1からして、時系列を誤認して北村氏が和解に反して行動したかのように主張したことで名誉棄損が認められている*2。そして争点1のツイートは、下記のように単独では罵倒的な表現はつかっていない。


いや、北村氏自身がかの(呉座氏の処分の原因になったとされる)オープンレターの発起人の一人(これは和解後に出しています)なんです。

 逆に争点7のツイートは、下記のように話題の「ポリコレリベサヨうんこ学者」がつかわれているが、「一方的な罵詈雑言」であって「社会的評価を低下させるものとはいえない」と判断され、実は名誉棄損は認められず名誉感情侵害が認められている*3


北村さえぼう、小宮友根など、Twitterでこいつクソやなと思うポリコレリベサヨうんこ学者の本を読んでみる会というのをやってみたいな。

 裁判所は批判そのものの妥当性と、批判につかわれた言葉の強さをそれぞれ判断している。人文学者であるはずの雁琳氏は、判決文で明記されたことすら読みとれなくなっている。


 そもそも順序が逆なのだ。意義と根拠に応じた強さの表現をつかうから批判に正当性が生まれるのであって、批判したい気持ちを満たすために法的にゆるされる限界まで言葉を強くすることに正当性はない。
 もちろん公言されなければ内心の正当性を第三者がおしはかることは難しいし、時には批判者が自分自身を騙していることもあるだろう。しかし言葉の強さという表層にばかり意識がとらわれているようでは、意義と根拠こそが批判の根本だということを忘れてしまう。

*1:天皇玄孫の竹田恒泰氏、戦史研究者の山崎雅弘氏を名誉棄損でうったえて、「負け戦」を経験する - 法華狼の日記

*2:判決文ノンブル27頁。オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」が呉座勇一氏への攻撃目的として出されたという陰謀論をとなえたいなら、オープンレターを出した後で和解したという時系列で認識したほうが整合すると思うのだが、なぜか和解後にオープンレターが出されたという認識が一部で定着してしまっていた。こちらのエントリで複数の誤解を記録している。 呉座勇一氏と北村紗衣氏の和解金をめぐって、オープンレター以上に大変な事態になるのでは? - 法華狼の日記

*3:判決文ノンブル43頁。