法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「ジェンダー」という台詞と、漫画の細部に宿る神

漫画の一幕を抜粋するタイプの画像広告は、耳目をひく刺激的な場面をピックアップするあまり、作品のニュアンスをゆがめることがまれによくある。
togetter.com
それが広告にかぎった話ではなく、楠本まき氏の下記インタビュー記事に対しても、どうやら引用された一コマの印象が一人歩きしているところがあるらしい。
www.huffingtonpost.jp

楠本まき氏の漫画は、あえていえば「オサレ」と評されるようなタイプの作品である。インタビューで語られたような社会的メッセージを作品内の台詞でわかりやすく説明するような作風ではない。
たとえば「通り魔説教」*1と評される『クロエの流儀』のように主人公が特権的にメッセージを主張するタイプの作品ではないし、作者が在特会を当然視*2する『魔法少女プリティベル』のように作者自身のメッセージがむきだしなタイプの作品でもない。


娯楽としてのスタイルからして、雑誌にバラエティを生むための「異端」にあたる。
作家自身が感性のまま好き放題に描いているようでいて、おそらく編集の理解がなければ商業媒体に載せられにくい立ち位置だと想像できる。
dkmasashi.hatenablog.com

多分、「私達は、いろいろ人のことを決めつけて見てしまうけど、人間というのは実は分からないものなんだ」というようなことが作品全体としてのメッセージなんだろうなーとは思います。で、そういう主張を登場人物が割とストレートに言っていたりする場面もあるのですが、作者の主張を言わされているという感じではなく、この登場人物だったらこういうこと言うだろうなーという感じになっていて、そんなに嫌味には感じませんでした(少なくとも私は)。

インタビューで楠本まき氏は「ステレオタイプを描いちゃうのは、キャラクターの設定を詰めきれていないということでもある」と語り、「エプロン姿にオタマ」という事例をあげていた。
しかし、そもそも「ジェンダーバイアス」という話題に限っても自論を答えられること自体、作品の細部までこだわっているということではないだろうか。楠本まき氏は「ジェンダー」だけをテーマにしているわけではないのだから。


楠本まき氏だけではない。特にメインテーマではないのに、「ジェンダー」という言葉がひとつの枠組みとして肯定的に描写される漫画が時々ある。
一例として、『踏切時間』という漫画の第1話から引用しよう。これはアニメ化された1話に同じ描写があり、それを視聴してから原作を確認するという順序で知った。

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青春しようとする時に異性愛しか念頭になかった少女は、後輩に叱責されて素直に過ちを認める。

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この場面は、思いつきでダメな言動をしてしまう少女の性格と、しかしすぐ過ちを認められる善良さを示す重要な描写だ。それがクライマックスの伏線ともなる。作品のメインテーマではないが*3、それなりに重要な描写である。
ここでもし「ジェンダー」という概念が作り手の知識に存在しなければ、この少女は違った印象のキャラクターにならざるをえない。逆に、「ジェンダー」という言葉の知識を正確に詳述する義務はない。事実として少女の台詞は「ジェンダーとかその辺のところ」というあやふやなものだ。さらにいえば、作者は知識をもってなお表現しない選択肢もあった。
楠本まき氏がインタビューで提唱したように、作者が「ジェンダーバイアス」に自覚的になることは、こうして創作の選択肢を広げることにもつながるわけだ。

*1:【オリジナル】「\あいまいみー 87-1/ ちょぼ」/「ちょぼらうにょぽみ」のマンガ [pixiv]

*2:一人ぼっちの漫画工場 ネトウヨと言いたがる人たち。

*3:作品全体が、踏切前のさまざまな人々のドラマを点描する短いエピソードのつらなりになっている。必ずしもジェンダーステレオタイプを脱した内容というわけでもない。