法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

漫画家と法哲学者の両方が「第三者の放言」をしたとして、その内容のどちらがより悪質な抑圧だろうか?という問題

偏見的表現に説明を求めることが表現規制あつかいされるところを見て、脅迫被害者に説明を求めた法哲学者を思い出す - 法華狼の日記
前提を固めるためのエントリ*1ばかりに注目が集まり、ふしぎなくらい上記エントリには反応がほとんどないが、はてなブックマークでひとつだけコメントがついていた。
はてなブックマーク - 偏見的表現に説明を求めることが表現規制あつかいされるところを見て、脅迫被害者に説明を求めた法哲学者を思い出す - 法華狼の日記

b:id:type-100 権力関係のない第三者の放言と作品に具体的な関与をする編集者の発言では、後者の方が抑圧という点に限っては悪質でしょう。言論に参加する義務などないという点については大いに同意しますが。

まさか法哲学*2のツイートそのものと、漫画家のインタビュー内の架空編集者のガイドラインという比較をされるとは思わなかった。「ツイートが」ではなく、「ツイートの考えが」とでも記述するべきだったろうか。


もちろん私が想定していたのは、漫画家である楠本まき氏と、法哲学者である大屋雄裕氏の、それぞれの主張内容の比較だ。
「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」。漫画家・楠本まきはなぜ登場人物にこう語らせたのか | ハフポスト

バイアスのかかった表現については「なぜこれを描かなくてはいけないのか」と作家に説明を求めて、(編集部が)納得させられたら載せるし、納得できないものは載せない。そういうガイドラインを、他の差別的な表現に対してと同様にジェンダーに関しても作ればいい。

Takehiro OHYA on Twitter: "まあしかし前にも書きましたが大学人ではないわけでコストは誰が払うねんという話にはなるでしょうし、脅迫に屈しないというのは言論で闘うことが前提ですがご本人がそういう対応もしていないようなので、堪忍袋にも限度があるかとは。
RT @zetuboutouin: 正直、五十歩百歩です。"

まあしかし前にも書きましたが大学人ではないわけでコストは誰が払うねんという話にはなるでしょうし、脅迫に屈しないというのは言論で闘うことが前提ですがご本人がそういう対応もしていないようなので、堪忍袋にも限度があるかとは。
RT @zetuboutouin: 正直、五十歩百歩です。

まず、楠本まき氏の話は、すでに軽重さまざまなガイドラインが存在する編集と漫画家の関係において、納得できる説明ができれば載せるという重みの、あくまで虚構の「抑圧」だ。
一方、大屋雄裕氏の話は、脅迫被害者を大学や社会が守らずに辞めさせたことについて、被害者が闘わなかったことが悪いという重みの、現実の「抑圧」の追認だ。
表現者が意図の説明を要求される虚構の抑圧と、被害者に特段の説明が要求される現実の抑圧。ひとつの表現を発表媒体に載せてもらえないことと、約束をたがえて仕事そのものが失わされること。どちらがより悪質だろうか?


もしも楠本まき氏の主張が比較的に悪質だというなら、私には理解が難しいので、ぜひくわしい説明を知りたいところだ。
そして大屋雄裕氏の主張が比較的に悪質だというなら、楠本まき氏ほど批判されていないように見えるのはなぜだろうか。

*1:「バイアス」が一般的に悪いものだという合意すら今のインターネットでは難しいのだろうか - 法華狼の日記

*2:表現の自由を研究テーマのひとつにしていることなどから、漫画家と編集の関係性と比べても、特に当事者性が弱いとも思えない。