法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「バイアス」が一般的に悪いものだという合意すら今のインターネットでは難しいのだろうか

漫画家の楠本まき氏に対する下記インタビュー記事の件なのだが。
「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」。漫画家・楠本まきはなぜ登場人物にこう語らせたのか | ハフポスト
まず、主題となっている「ジェンダーバイアス」については、編集部の注がつけられており、その解釈に悩むことはないだろう。

ジェンダーバイアス…性別によって社会的・文化的役割の固定概念を持つこと。社会における女性に対する評価や扱いが差別的であることや、「女性(男性)とはこうあるべき」となどの偏ったイメージ形成を指す。


次に、楠本まき氏がバイアス全般についてないほうがいいと語っている文章がある。

だいたいジェンダーに限らず、バイアスなんてない方がいいに決まってますから、そこはもう合意していいんじゃないかと思うんですよね。

これに対して、あたかも良いバイアスがあるかのような反応がインターネットに散見される。一例として、京都女子大学教授の江口聡氏によるツイートを紹介する。




ここで辞書をひもとけば、一般的に下記のような語義が説明されている。
バイアス(ばいあす)とは - コトバンク

先入観。偏見。また、物事の傾向の偏り。

一応、統計学などでは別の意味もあるし、なかには電子回路を動かすために必要な意味もある。
しかしインタビュー記事タイトルの「バイアスのかかった」という用法をてらしあわせても、先入観や偏見という解釈をとるべきだろう。
バイアスが掛かる(バイアスガカカル)とは - コトバンク

《バイアスは先入観・偏見の意》先入観にとらわれている。色眼鏡で見る。「考え方に―・っている」

楠本まき氏の元発言を下記のように改変して、どこか違和感があるだろうか。

だいたいジェンダーに限らず、偏見なんてない方がいいに決まってますから、そこはもう合意していいんじゃないかと思うんですよね。

実際にインタビューの別の部分で、「性別に基づく偏見」と表現している発言もある。

漫画に携わる者としては、漫画が幼い読者に性別に基づく偏見を無意識のうちに植え付ける役目を果たしてしまってはいけないと思います。


もちろん、どのような表現が「偏見」なのかは個別具体的に論じるべきだろう。
偏見であってもなくすべきではないという意見もあるかもしれない。全体としては肯定しないにせよ、偏見を利用する技法は創作において珍しくない。
しかし楠本まき氏のインタビュー全体を読めば、ある種類の偏見が必要だという意見を全否定しているわけではない。

女子力やモテを女性が求める自由はもちろんあると思います。だから私は不作為なジェンダーバイアスを、まずなくしましょう、と言っています。

上記の発言をいいかえると、作為によるジェンダーバイアスならば自由だという解釈ができる。
全ての表現に意図が必要という考えは、創作のひとつの理想論としては理解できる。


最後に、ガイドラインを作ろうという提言についても、ちょうど数日前に話題になった下記ツイートと比べて、さして非現実的とは感じない。

上記ツイートが紹介している編集部の指南は、ありきたりな表現には必然性がいるという内容だ。それはそのまま楠本まき氏の提案に通じている。

描き手が従来通りの価値観を踏襲して、特に疑いもなくジェンダーステレオタイプをそこかしこに散りばめた作品を産み出す。それが読者の意識に刷り込まれて、読み手の中から新たに描き手になった人が、またステレオタイプな作品を作る。負の再生産ですよね。

バイアスのかかった表現については「なぜこれを描かなくてはいけないのか」と作家に説明を求めて、(編集部が)納得させられたら載せるし、納得できないものは載せない。そういうガイドラインを、他の差別的な表現に対してと同様にジェンダーに関しても作ればいい。

念のため、喫煙描写を禁じる編集部のルールと争って負けた体験を語りながら提案していることから、このガイドラインは一種の皮肉と読むべきだと思う。
ただ、ジェンダーバイアスそのものが不文律として一種の制約をもたらしていると考えれば、ガイドラインは表現の規制を破る道具になるかもしれない。
楠本まき氏の元発言を下記のように改変して、どこか違和感があるだろうか。

だいたいジェンダーに限らず、制約なんてない方がいいに決まってますから、そこはもう合意していいんじゃないかと思うんですよね。