法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「第5回国際女性会議WAW!/W20」に『プリキュア』の鷲尾天プロデューサーが登壇した報道に、少し悩む

参加したのはパネルディスカッション「多様性を育てるメディアとコンテンツ」で、プロデューサーが立ちあげた1作目から多様性が描かれていたことを受けてのことだという。
プリキュア:“生みの親”鷲尾Pが国際女性会議に 多様性語る - MANTANWEB(まんたんウェブ)

 鷲尾プロデューサーは第1弾「ふたりはプリキュア」について「当時、子供向けアニメは、女の子らしくあることがテーマの作品が多かった。それは違うんじゃないか?と西尾大介監督と話し合っていた」と説明した。

近年の西尾大介シリーズディレクターのコメントでも、登校する黒人少女の絵画「The Problem We All Live With」が引用されたりして、たしかに制作側も意識していたことがわかる。
『アニメージュ』2018年7月号で、プリキュアから派生するように、富野由悠季と宮崎駿の興味深い関係が語られていた - 法華狼の日記

ふたりはプリキュア』の根底にあるのは「日常の中で勇気を出す話」です。たとえばノーマン・ロックウェルの絵画「The Problem We All Live With」(注)のあの黒人の女の子。「学校に行く」というただそのことが、彼女にとってどれほど勇気がいったことか! もちろん、そこまで政治的・歴史的なテーマはなくとも、僕は観た人一人一人が小さな勇気の火種を持ってもらえるような作品を作りたかった。

注=「The Problem We All Live With(共有すべき問題)」
アメリカ全体が人種差別を当然としていた1960年代の絵画。白いワンピースを着た黒人の小学生の女の子がスーツの男性=連邦保安官に囲まれ、たった独りで登校する姿を描いた作品だ。

今期の『HUGっと!プリキュア』に対して、シリーズで特異的に社会問題をとりこんだ作品として反発するような意見も散見されるが、実際はシリーズ初代から政治的・歴史的な文脈が埋めこまれていたわけだ。

しかし鷲尾PDも西尾SDも男性であり、女性自身が主体性をもった作品とはいいづらいし、女性がならぶディスカッションに男性が参加している絵面も過渡期の印象を受ける*1


念のため、シリーズを通してみれば、女性がメインスタッフとして参加した作品も多い。
キャラクターデザインは約半数の作品で女性がつとめ、シナリオをコントロールするシリーズ構成も女性がつとめた作品が複数ある。
監督は現在までTVアニメでは男性しかいないが、劇場版では複数の女性演出家がキャリアをつむ登竜門となった感すらある。
日本の女性アニメ監督 - 法華狼の日記

1980年代まで数人しかいなかったことも事実だが、2000年以降の作品が目立つので、それなりに状況が変わりつつあることも確実だろう。
近年のものを見ると、東映女児向けアニメで劇場版を任されるケースと、新興アニメ会社で若手監督として起用されるケースが目立つかな。


それでは、過去のメインスタッフだった女性がパネルディスカッションに登壇すれば良かったかというと、残念ながらそうならない可能性もあったという悲観的な想像をしてしまい、さらに悩んでいる。
アニメにおいて女性スタッフが前面に出ることはインターネットにおける視聴者の反応が良くなく、さらに社会的メッセージが語られることも反発がしばしばある。教育的な期待がされるはずの女児向けアニメでも例外ではなく、上述のように『HUGっと!プリキュア』では注目のかわりに反発されている状況をあちこちで見聞きした。
もしパネルディスカッションに女性スタッフが登壇すれば、意義のある光景だろうとは思うが、年長の男性が講演するよりも激しい反発が起こった可能性があったのではないか、などと考えている。もちろん杞憂であってほしいし、杞憂な社会をつくるべきだと思うが……

*1:ただし単純に女性が参加すればいいかというと、それはそれで違うだろう。そもそも「WAW!」は安倍政権がかかげる「女性が輝く社会」のために立ちあげられた国際会議であり、社会へ奉仕させるために女性を応援してるという背景は留意せざるをえない。

『バーニング・オーシャン』

2010年4月、巨大施設型の船舶において、メキシコ湾沖で石油の試掘をおこなう計画が遅れを見せていた。かさむ費用に石油会社の重役は不満をもらし、現場主任の頭越しに手順を飛ばして作業をいそがせる。重役の楽観が的中したかのように圧力テストは順調に進んだが……


バトルシップ*1や『ローン・サバイバー*2ピーター・バーグ監督による2016年の米国映画。史上最悪ともいわれるメキシコ湾原油流出事故の、発端となった炎上事故を描く。

原題は施設名と同じ『ディープウォーターホライズン』で、映画の雰囲気にあっている単語がならんでいるのに、わざわざ英題っぽい邦題をつけた意味がよくわからない。
施設の実物大セットを再現したことがアピールされているが、地上に設営して背景の海は合成しているし、巨大な塔など施設各部もVFXで追加修整している。とはいえ実際にヘリコプターが離着陸できる発着場を撮影のために作りあげたり、撮影セットの耐荷重を考慮して本物とレプリカを選択したりするメイキング風景はそれなりに興味深い。


映画としては定型をしっかり押さえていて、冒頭の家族とのやりとりで各人物像を見せて、会話のなかで舞台となる施設の位置づけを説明して、事故の予兆となる小さなトラブルまで描く。
1時間50分以上の尺だが、エンドロールに10分以上を使い、実際の映像をもちいた描写もあるので、実質的な尺は1時間半ほど。巨大セットにVFXを多用した大作ディザスター映画でありながら、無駄なくまとまっている。
いかにも劇映画な家族描写も必要最小限で、本筋に入ってからは海上と地上のコミュニケーション切断を表現する場面くらい。余裕のない脱出中に家族を長々と思い出すような不自然な場面はない。
そして利益優先で愚昧な会社と安全重視で実直な現場の対立構図をわかりやすく見せ、わずかな落ち度が事故の瞬間まで積み重なっていく様子をモンタージュ。石油噴出から施設が崩壊していくまでを描いていく。
炎上事故後の石油流出も描写されないが、『バトルシップ』での間延びした前半や、『ローン・サバイバー』での蛇足感があった終盤を思うと、事故からの生存劇にしぼった構成は監督の作風からして正しいだろう。
からくも脱出できた人員を確認していく結末から、実際の犠牲者のプロフィールを見せて虚構から現実へ橋渡しする演出も、定番だが悪くない。


ただ、巨大セットを逃げまどう俳優にカメラが寄りすぎていた感はある。もう少し事故の全体像もわかる演出もほしかった。
全貌がつかめないほど巨大な事故の雰囲気を観客に体感させる意図なのかもしれないが、終盤に危険をおかして移動して目的を達成しようとする局面で位置関係がわかりにくいのは迫真性まで下げていた。少なくとも作業員は施設の構造をかなり把握しているはずで、そこは観客も共有していいところだろう。
事故が施設の各部で起きている様子を断片的に見せているから、せっかく巨大セットを作ったのに個別のセットで撮影している感じが画面に出てしまったという問題もある。

『のび太の月面探査記』は『かぐや姫の物語』に通じるテーマをガチで隠し持っていた

まったく時機的な余裕がないはずが、うまく偶然が重なって『映画ドラえもん のび太の月面探査記』を映画館へ観に行くことができた。
大ヒット上映中!『映画ドラえもん のび太の月面探査記』公式サイト
くわしい感想はいずれ独立したエントリにまとめるとして、意外にも平成末期を象徴する作品として鑑賞する価値がある作品だと思ってしまった。
月をモチーフにした作品らしく竹取物語を意識した描写が多いのだが、おかげでおそらく偶然にも『かぐや姫の物語』の一側面を延長したものとして読みこめる。


まず、観賞前のさまざまな予告で感じていた不安は、いくつか的中していた部分がありつつも、なんとかひとつの娯楽作品としてまとまっていた。
異説を現実化するテーマもあって、近年のSF作品としてはオカルトっぽさが強すぎる感はあったし、相互に関連性の低い出来事が同時進行することでの物語の軸の分散や、過去のシリーズ映画を意識した要素が多すぎ意外性が足りない問題はあった。
しかし、原作者没後のダメなアニメオリジナル映画と違って、関連性の低い出来事がテーマ的には関連して、印象は強固となっている。そこで感じたのが、これは原作者が製作途中で没したため構成が歪みをかかえた『ねじ巻き都市冒険記』の再構成ではないかということ。

のび太が友人に見せるため作りだしたキャラクターに始まるメルヘンな『ねじ巻き都市冒険記』は、のび太たち地球の生命を作りだした「種まく者」からの接触や、秘密道具でクローンとして製造された犯罪者による攻撃で冒険活劇へ移行していく。
残念ながら「種まく者」は中盤で去って物語にかかわらず、クローンで増やされた人間という倫理的問題はあっさり処理されて、各要素の物語における結びつきは弱かったが、原作者が最初に決めた「命を作る」というテーマから対立構図までは筋が通っていた。


しばしば原作者はアドリブ的に映画原作を連載して、新設定を後づけのように出していったが、きちんとテーマをしぼることで作品の印象をまとめていた。
たとえば『日本誕生』で敵の正体が未来人であるという展開は、歴史に敬意をはらうというメッセージと密接に関連していた。一方で、原作者没後につくられた『南海大冒険』は、敵が未来人という設定を引きながら、それはただの技術力の説明でしかなかった。
原作者は他にも『竜の騎士』で、滅びたはずの恐竜が生きのこっている謎にはじまる物語に、恐竜が滅びた理由をクライマックスとして配置。『鉄人兵団』は、人間の労働力としてロボットが求められたという地球の歴史の鏡像として、ロボットの労働力として人間を捕まえるという敵ロボットの動機を設定。
そして今回の『月面探査記』は、のび太たちがつくりだしたキャラクターは"現実と思われていた想像"であり、のび太たちのところへやってきたキャラクターは"想像と思われていた現実"だ。SF設定では誕生経緯がまったく異なるキャラクターが「想像力」という共通項をもって、それが敵に欠落しているという対立構図を作りあげた。


そしてその敵の正体は、やはり過去の映画シリーズの設定を引いているようで、ちゃんと時代にあわせて変化をつけている。
その過去映画の敵設定は当時の社会問題を明確に風刺していたが、今作は敵の想像力が欠けているという設定から、結果的に『かぐや姫の物語』に通じる社会風刺を読みこめる作品になっている。
『かぐや姫の物語』 - 法華狼の日記
メインテーマだった女性の性別役割については、女性小説家が脚本を担当しながらも『月面探査記』は弱い。後方の仕事を担当したため決戦にしずちゃんは参加していないし、あまり台詞も多くない。
それよりもサブテーマに関連して、意外な問題意識を読みとれるようになっていた。敵の設定としてはSFにおける古典といってもいいのだが、そこで竹取物語をモチーフにした結果、現在ならではの敵設定が誕生した。

これは冗談ではなく……いややはり半分は冗談だが……上記ツイートを補助線にすると、敵設定やクライマックスが理解しやすい作品になっていたのだ。


くわしい説明はいずれエントリをあらためるとして、想像で現実を乗りこえて記憶を守る『のび太の月面探査記』は、現実に想像が敗北して記憶が失われる『かぐや姫の物語』への回答になっている。
無意識の結果かもしれないが、本当にそうなっていることに驚いたし、そこに感じるものがあった。

『相棒 Season17』第19話 漂流少年~月本幸子の決断

死者のノートを持ち去った少年を杉下は探そうとするが、少年を守ろうとする月本は断る。次に、身寄りのない若者たちがつどうバスケチームに杉下が行ったところ、彼らを影から支援する「ダディ」という人物がいることを知る……


前回の続きで、スタッフもそのまま太田愛脚本に橋本一監督が続投。
サブレギュラーの月本をめぐる前後編として映像に力が入っていて、地下駐車場の少年と黒幕の格闘や、犯罪グループを摘発する大立ち回りはTVドラマとしてはがんばっている。さまざまな街角でロケして、調べてまわる特命係の周囲に平和な子供たちの姿が映りこみつづける演出も地味にいい。


ただミステリとしては、期待したほどの意外性や妙味が謎解きになかった。

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日本軍による性暴力被害者への支援運動について、中国に着目した『架橋するフェミニズム』のレポートが興味深い

大阪大学の牟田和恵氏が代表となった研究のまとめとして、『架橋するフェミニズム―歴史・性・暴力』という電子書籍が約1年前に無料公開された。
この公開は、公式サイトでも説明されているように、国会議員の杉田水脈氏をはじめとした不当な攻撃に対して、科研費の成果として示す意義もあったろう。
科研費バッシングに応えて/無料電子書籍『架橋するフェミニズム』刊行しました! | ウィメンズ・アクション発信ナビ

冒頭にも書きました通り、『架橋するフェミニズム』は、研究成果のより広い公共への還元のために、誰でも無料で読める電子書籍として刊行公開しています。管見の限り、このような試みは、科研費の研究成果発信として先駆的なものだと自負しています。

もちろん『架橋するフェミニズム』は科研費をつかった研究「ジェンダー平等社会の実現に資する研究と運動の架橋とネットワーキング」の「まとめ」すなわち要旨ということが明言されている。
研究のすべてを詳細に記載してほしいという要望ならば理解するが、もし概略しか記載されていないことをもって批判するならば、それもまた不当な攻撃と評さざるをえないだろう。


さて、『架橋するフェミニズム』には8人の執筆者が各章を書いている。
個人的な関心から特に興味深く読んだのが、熱田敬子氏による第7章「日本軍戦時性暴力/性奴隷制問題との出会い方――ポスト「証言の時代」の運動参加」だ。

大沼は、ジャーナリストの江川紹子のインタビューに答えて、アジア女性基金が評価されなかったことが「中韓に謝ってもいいことない。かえって居丈高な態度をとられるじゃないか」という日本国民の思いにつながったと語っている(江川2013)。

まず、アジア女性基金の理事だった大沼保昭氏の上記発言に対して、そもそも中国は基金の事業対象ではないのに韓国と一体化されている問題を熱田氏は指摘する。

韓国とはまた異なる状況、経緯のある中国や香港の支援者たちの経験を見ることで、地域や時代により異なる日本軍戦時性暴力/性奴隷制被害と、多様な支援運動のあり方を示す一助としたい。

中国における支援事業をとおして、従軍慰安婦問題*1をめぐる政府と民間の緊張関係を熱田氏は指摘していく。


2011年から支援運動を調査していたという熱田氏は、科研費をえたことで2014年から調査の範囲を広げた。
そこで面識をもった20代の支援者3人へのインタビューが紹介されているわけだが、日本軍慰安所制度への問題意識はフェミニストですら薄く、周囲もあまり積極的でないことが語られている。

周囲の態度について莉莉は、「本当に関心がある人はたぶん少ない。みんな自分の生活が忙しいし、自分の生活を維持しなければいけないし。残念だけど」と、仕方のないことだという。

この支援者が通訳などで協力し、インタビューにも同席しているハイナンNETは、日本で生まれた支援団体である。
やはり日本で生まれた別の支援団体で共同代表をつとめる石田米子氏も、他国にあるような現地の支援団体が中国にはなく、官民ともに積極的ではないと2004年に語っていたという。
3人の支援者自身も、支援団体の活動に参加する以前は従軍慰安婦問題への関心はなかったと全員が答えている。ひとりは香港で中国とは異なる教育課程を受けたが、中学の授業で軽くふれられただけだったという。

蓉榕・大学で歴史小説についての授業を取って、歴史叙述や主体の問題には興味があった
Nichol・戦争の歴史に特に興味があったとは言えない・仕事の関係(セクハラ防止啓発)で性暴力被害を受けた女性には興味があった
莉莉・「慰安婦」がいた、南京大虐殺があったということは知っていた。だが、それはただ歴史だと思っていて、自分からは遠いことだった


中国政府は、熱心に教育しなかったり、公的に支援しないだけではない。
日本政府を刺激しないために中国政府がさまざまな支援活動を規制してきた事例を熱田氏は指摘し、インタビューイのひとりの体験談も引く。

NHKプロデューサー池田恵理子ドキュメンタリー映画『大娘たちの戦争は終わらない〜中国山西省・黄土の村の性暴力〜』では、1995年の北京世界女性会議で、中国政府が中国の被害女性たちの会議参加を許さなかったことが描かれている。
 こうした状況は過去のものになったわけではなく、最近の日本軍戦時性暴力パネル展でも、中国政府が日本政府への配慮から内容に制限をかけることがある。ドキュメンタリー映画『大娘たちの闘いは続く〜日本軍性暴力パネル展のあゆみ〜』(池田恵理子撮影・編集・構成、2013、制作・ビデオ塾、29分)では、2011年に盧溝橋で開催した日本軍戦時性暴力パネル展で、女性国際戦犯法廷の「天皇有罪」判決を記述したパネルは、日本政府を刺激し国際問題につながるとされて、展示できなかったと述べられている。2012年、南京において日本軍戦時性暴力パネル展を開催した南京師範大学教授・金一虹らは警察によって展示が途中で撤去されるという経験をした(金2016)。
 蓉榕も、中国で日本軍戦時性暴力の問題を語り、謝罪賠償請求などの運動につなげることはかなり厳しいと感じている。彼女たちが日本軍戦時性暴力のドキュメンタリー映画上映会を行おうとした時も、中国の警察から中止しろとの圧力がかかった。

ここまで読んで、いやおうなく連想した。韓国が民主化することで、ようやく従軍慰安婦問題で被害者が声を上げることができるようになった歴史を。
さらに、中国出身の作家である石平太郎氏が、中国の政治体制を批判しながらも日本の国益を重視して民主化を軽視する見解をとっていたことも思い出した。
劉燕子氏と安田峰俊氏の対談で「リベラル」を批判する根拠が、勝手な期待を裏切られた体験談ばかりな件について - 法華狼の日記

すでに民主主義国家となったはずの韓国が、今でも日本に対する理不尽な敵視政策をとっているのはその実例である。

国益を優先する枠組みでは、不満をもった民意を抑圧する一党独裁政権を歓迎しかねない。日本政府にとって、軍事独裁時代の韓国がそうだった。

もちろん政府が自国の被害を他国へ訴えることは少なくないわけだが、だからといって外国からの被害の訴えが外国政府の意図によるとは限らない。
ひとりひとりの被害によりそうことは、しばしば政府の意向と衝突する。むしろ強権的な政府ほど、被害を政治利用したいがために、個別の被害を抑圧しかねない。


そうして支援者のひとりは活動をとおして愛国主義を批判する。

中国で日本軍戦時性暴力被害を取りあげることは、必ずしも「愛国」と結びつくわけではない。そして蓉榕にとっては、日本軍戦時性暴力被害に取り組むこと、日本軍戦時性暴力被害に取り組む日本人と出会うことは、むしろ「愛国主義」を批判的にとらえかえす積極的な意味も持っていた。

一方、香港の支援者は一種の民族意識をおぼえていったようだ。

Nichol自身思いもしないことだったが、被害女性たちのために日本の支援団体と一緒に地道な支援をしてきた、何人かの中国人の姿を見て、中国に対する認識も変わったという。「自分の信念に忠実で、寛容で、計算づくのところがない」、「中国人は本来こうあるべきだと思うような人たちだった」と、Nicholは彼らを絶賛する。支援運動に関わる「人」は、抽象的な抑圧者とは異なる中国のイメージとして表象されている。

念のため、ここでの「中国人」への賞賛は、国家権力への従属を意味するような愛国主義とは異なるものだろう。
歴史と体験をとおして「人」をとらえなおし、むしろ偏見と境界をのりこえ、架橋する力がある。

*1:なお、熱田氏は「慰安婦」という呼称の問題点を指摘し、日本軍戦時性暴力や性奴隷制問題といった呼称を選んでいる。この呼称が絶対のものではないという留意もしている。