法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『名探偵プリキュア!』第25話 キュアエクレールの正体

 予言に記された日、ついにウソノワールがキュアエクレールのマコトジュエルをもって出撃する。とまどいながらもついていく幹部たち。明智と小林が対峙した時、ついに森亜が反旗をひるがえした。そして正体をあらわしたウソノワールがマコトジュエルをとりこむ。異変に気づいた人々が現場に集まろうとするが……


 村山功シリーズ構成の脚本による、キュアエクレールの正体開示回。ただし変身や戦闘は次回にもちこして、今回はキャラクタードラマとしてはキュアエクレール候補者がそれぞれヒロイックな精神性を発揮する描写に力をいれ、ミステリ要素としてはウソノワールの正体のサプライズに要点をおいている。
 ここまで4話かけてイベントを展開してきたキュアエクレールの正体探しだが、そうではなかった候補者3人をそのまま退場させるのは惜しかろうから、今後に第5のプリキュアになったり、あるいはウソノワールの正体という可能性も考えていた。その意味では、正体が妖精と示唆されてはいたが、ウソノワールの姿が既存の妖精と同じデザインラインというところに驚きがあった。同じ村山功脚本でいえば『魔法つかいプリキュア!!〜MIRAI DAYS〜』に近いサプライズだが、こちらは意外性と納得感が両立している。
 一方、キュアエクレールの正体探しは、イベント以前のエピソードから力のいれようが違っていたので、印象からして意外性がまったくないものではあった。どちらかといえば、メイン回だった前回*1よりも今回だけで金田れいのヒロイックな精神性を描ききり、さまざまな演出の工夫でキュアエクレールの意外な正体かもしれないとミスディレクションしたところで驚きが生まれていた。知らなかったとはいえ、プリキュアの記憶をとりもどす香水よりも妖精の安全を優先する金田こそ、香水を守ろうとした帆場よりもヒーローらしさがある。


 絵コンテはフルヤヨウコで、爲我井克美やたかはし隆子と共同で作画監督にもクレジット。東映アニメーションのこの枠では珍しい体制。
 実際に絵作りには相当に力が入っていて、序盤の事務所内の光と影で奥行きを出したレイアウトが素晴らしく、うるわしく作画されたキュアエクレール候補の日常を多様な構図で切りとっている。
 アクションシーンもプリキュア3人が変身した直後の敵幹部3人との同時戦闘が目を引いた。画面内をいれかわりたちかわり、ぐりぐりと全身をつかった殺陣で動きまわる。原画担当は誰だろうか。

手癖によるアニメの性的描写への批判に対して、曲解しながら反発していた「フモト@SFumoto」氏が、自分自身が性的描写を手癖で考えていることを露呈していて苦笑した

 発端は、いわゆるなろう系アニメの性的描写が不快という感想に対して、そうしたアニメは必ず性的な魅力をキャラクターで表現するべき男性向けや女性向けコンテンツであるという発想から「フモト@SFumoto」氏が長々と語ったことだった。


>(要約)なろうのアニメの女性キャラの露出が不快

男性向け・女性向けのコンテンツが、それぞれのユーザーが求める性的な魅力をキャラクターで表現するのは、ごく自然なことです。
添付画像は、Amazonで販売されている女性向け・全年齢対象のBL作品の表紙です(特定の作品を批判する意図はないため、モザイクをかけています)。男性キャラクターが上半身の服をはだけ、ほぼ裸に近い艶めかしい姿で描かれています。このような表現は、女性向けBL作品では決して珍しいものではありません。

また、コミックに限らず、「anan」などの雑誌でも、男性モデルが上半身を露出し、挑発的なポーズを取った表紙は珍しくありません。

私は、これらの表現が悪いと言いたいのではありません。エンターテインメントには男性向け・女性向けというカテゴリーがある以上、「お互いさま」であることを忘れてはいけないということです。

男性向け作品の表現を不快に感じる女性がいるように、女性向け作品の表現を不快に感じる男性もいます。それにもかかわらず、自分が不快だからという理由だけで相手の作品を攻撃すれば、結局はお互いの好みの作品を破壊し合うことになります。

だからこそ、自分の価値観だけを基準に気に入らないものを攻撃するのではなく、多様な表現が共存できる環境を守ることが、エンターテインメントにとって大切なのではないでしょうか。

「テレビがつまらなくなった」と言われて久しい時代になりました。
その原因を私達は今一度振り返って考える必要があります。

 もちろん上記に対して、「ばっちゃん@LcL8jPw70mOP9TB」氏のように個々の作品において、性的描写がノイズになることもあるという反論もあった。


例えば全編シリアスな作品でそういうシーンでもないのに唐突に意味の分からないギャグが挟まったらノイズに感じますよね。それと同じで、そもそも格好としておかしく作品上不必要にも関わらずエロを入れてくるからいらないと言っているのであってエロそのものがどうという話ではない

 しかし「フモト@SFumoto」氏はアニメのすべての描写はターゲットを分析して設計されているので、特定の描写が良くないと思った視聴者はターゲットではないと反論した。


よく「そういう作品でもないのにエロを入れるからいけない」と言う人がいますが、その前提自体が間違っています。
キャラクターがすっ転んでパンツが見えるような偶発的な演出などを除けば、商業アニメに作品と無関係な性的表現が制作スタッフの趣味だけで入れられることはありません。

アニメは1話あたり数百万円から1,000万円以上の制作費がかかります。監督やアニメーターが独断で好き勝手な演出を追加できるようなものではなく、作品のターゲット層を分析したうえで、キャラクターデザインや衣装、演出まで設計されています。

それを「唐突だ」と感じるのは、あなたがその作品のターゲットではないからです。

私がBL作品を好んで読まないのと同じことで、ターゲットではない作品の魅力や演出が刺さらないのは当然です。

 これは事実上、あらゆるアニメ批判を無効化する主張だ。この論理ならば性的描写に限らず、あらゆる描写に同じことが言えてしまう。
 しかし嗜好の異なる複数のターゲットを想定した作品が存在しうることを否定できなければ、「フモト@SFumoto」氏の論理はなりたなない。
 くわえて奇妙なのが、上記の「フモト@SFumoto」氏は、スタッフの趣味で描写されるノイズがあることを事実上認めているように読める。それこそ画面の全てが基本的に人間の手でつくられるアニメにおいて「偶発的な演出」もまた演出がコントロールできる領分だろう。
 単純に全身を映さなければパンツを作画しなくてもすむし、それを逆手にとって想像力を刺激するパンツ描写が流行した時代もあった。さまざまなオブジェクトを配置して性器や乳首を隠す手法も珍しくはない。
『野生のラスボスが現れた!』雑多な感想 - 法華狼の日記

第5話、温泉回なのに原画がほぼ外国人っぽく、作画監督の人数も少ないのに、キャラクター作画が安定しているところが立派。乳首をまったく作画していないが、フレーム外に逃がしたり草むらをなめるカメラワークで自然に見せている。

 逆にいえば、そうしてコントロールされたはずの性的描写が偶発的な演出に感じられたのだとすれば、「フモト@SFumoto」氏から見てもコントロールされていないアニメの描写も存在することになる。


 ここで「影畑凛星/Prism Magic@prism_magica」氏が、アニメーターが手癖で性的描写をおこなうことがあり、それを防ぐために設定に注意事項が書かれることもあるという一般論を指摘した。


いや、手癖で入れる人がいます。だからアニメの設定資料で「性的な誇張の禁止」が入ることがよくあります。

 上記の指摘は演出の指針的な話でもあるので、カットごとの作画を担当する原画マンにとどまらず、各話の作画監督や演出家などへの注意事項でもある。
 しかし「フモト@SFumoto」氏は、個々のアニメーターに裁量権がまったくなく、アニメの作画にミスはいっさい存在しないと考えなければ成立しない反論をおこなった。


ご存じないのかもしれませんが、アニメはカットごとにコマ数や演出の方向性が決まっています。そのため、アニメーターが個人の判断で勝手に演出を追加することはできません。

例えば、3コマ打ちと決まっているカットで過剰に胸を揺らしたりパンチラを入れたりすれば、動きそのものが不自然になります。逆に、1コマ打ちのアクションカットを地味に描けば、せっかくのフレーム数を活かせません。

モーションやデザインを強調するのは、アニメーター以前に絵を描く人間なら当然行う表現です。それは「アニメーターにエロを勝手に描く手癖がある奴がいる」からではなく、決められた演出の中で作品をより良く見せようとしているだけです。

 もちろんクオリティの向上と安定がいちぢるしい近年のアニメは、性的描写にかぎらず、あらゆる描写にコントロールがいきとどいていると感じることは多い。
 しかしそれでも各話の演出家やアニメーターの個性が出たカットは存在するし、描写ミスを根絶できるわけでもなく、コントロールを逸脱した描写がトラブルに発展することもある。
群衆に別作者のキャラをまぎれこませる遊びはパロディの権利として許容されたいと考えているが、ちょっと『妖怪アパートの幽雅な日常』は悩んだ - 法華狼の日記

TVアニメ『異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術Ω』のモブキャラクターにVTuberが登場したという指摘に、製作委員会が謝罪して映像のさしかえを表明した。

 凄腕アニメーターがキャラクターデザインと作画監督をおこない全体をコントロールしながら、特定の性的描写があまりにクオリティが高すぎて、作品のバランスを崩して伝説になったアニメすらある。
WEBアニメスタイル_COLUMN

アニメーターの友人はあまりのインパクトに大笑いし、脚本家の友人は「風呂場のシーン以外は、記憶に残らないよ!」と怒り出した。

 実際にDVDを購入して何度も見たが、当時のOVAとしては珍しいくらいSF中編アニメとして単巻できれいにまとまっているのに、全体の印象が残らない不思議な作品であった。


 さらに「フモト@SFumoto」氏は、アニメで原作にない描写が付与される場合に性的なものもある*1ことすら無視して、性的描写への文句を全否定した。


そもそも胸が動いたりパンツ見えたりといった演出は、そういう表現が許されているか、原作で最初から存在しているような作品です。 そういう作品を自分で視聴しておきながら文句つけるのはイチャモンと言われても仕方が無いですよ。

 そしてやりとりの過程で、胸がデカいキャラクターはラインを強調するのが自然で、強調しなければ疑問をおぼえると「フモト@SFumoto」氏は語った。


「手癖」と書くと悪意しか感じられないので止めた方が良いです。
キャラクターの動作や胸がデカいキャラクターのラインを強調したりするのは、むしろ自然な事ですし、逆に強調しない方が「なんで?」ってなります。
当たり前です。
アニメーターはキャラやモーションを魅力的に見せようとしているのですから。

それをレーティングや設定に合わせて調整するための注釈です。

「勝手に描くなバカ」という意味で書いてるんじゃないです。

 これこそまさに「手癖」という概念が指す発想だろう。
 結果的に手癖が効果的になることもあるとも思うが、強調するならばその必要性を考えぬいてこそ表現は進歩していく。性的部位を主要なモチーフにした作品であっても、場面ごとに意識的に抑制する実例もある。
『ペンギン・ハイウェイ』 - 法華狼の日記

 キービジュアルのようにメインヒロインはオッパイが絶妙に目立つデザインで、いわゆる乳袋にギリギリならない範囲で双丘のかたちを見せる。それでいて乳揺れ表現は少なく、視線を誘導して物語を追う邪魔にならないようギリギリを攻めている*3。

*3:ペンギン板野サーカスの前後、乳揺れ作画を抑えたことをオーディオコメンタリーで言及。

 性的描写でなくても、たとえば戦争をテーマにした作品であっても、描写の刺激性が望まぬ受容をされそうな場合は、あえて抑制することもある。それが演出というものだろう。


 そもそも「影畑凛星/Prism Magic@prism_magica」氏が指摘するような演出意図を逸脱するアニメーターが存在するかどうかの論争は、現役アニメ監督の安藤正臣氏が現在もいると説明し、決着したはずだった。
パンチラを勝手に挿入するアニメーターが実在することを安藤正臣監督が証言したことにはじまる、いろいろな暴走アニメーターや描写修正の話題 - 法華狼の日記
 安藤氏の一連の証言は、そうしたアニメーターのこだわりは高評価にもつながるので、暴走が許容されるという背景を暗に示唆もしていた。一消費者としての心情をいえば、個々の成功失敗は別として、少なくともTVアニメはそうした暴走が許容される体制であってほしいと思っている。
 しかし驚いたことに、「フモト@SFumoto」氏と、私の批判エントリを紹介した「諸葛望@sakami_keniti」氏は、安藤氏らの語った逸話が自説の補強になると考えているらしい。


あの人だけじゃなくて、↓『法華狼』もまだやってますわ。 hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20260310…


この法華狼って人かなり悪質ですね。

もともとは
「パンチラなどのカットは作品の設定やコンテで決まるもので、アニメーターが独断で勝手に描き足すことはない」
という話をしていました。

それにもかかわらず、制作過程での確認不足や行き違いによって、意図しないカットが描かれてしまった例を持ち出して「ほら、勝手にエロを挿し込むアニメーターがいたじゃん」と論点をすり替えて煽っています。

制作上の事故やミスと、アニメーターが個人の趣味で勝手に性的表現を描き加えることは、まったく別の話です。

この二つを意図的に混同させることでアニメーターを、ひいてはアニメ界隈全体を性差別的だと印象づけて悪魔化しようとしている意図をひしひしと感じます。


『法華狼』は以前から相当に悪質なんですけど、叩くタイミングが無かったので。 こうやって悪意で捻じ曲げる人がいるから、 分かってもらえると思っていた安藤正臣さんも純粋すぎる。

 しかし、このふたりが反論しようとしていた「Simon_Sin@Simon_Sin」氏の証言は、独断で勝手に描こうとするアニメーターがいて困ったという体験談だった。つまり、性的描写は設定やコンテ段階で決めるという原則と、その指示にしたがわない事例があるという話だった。
いちいち指示しないとアニメーターが手癖で女性の胸をゆらしてくるというディレクション体験談が、異論が殺到するほど信用できないものとも思えない - 法華狼の日記
 上記エントリの時点でも、逸脱するアニメーターを語るアニメ関係者の証言を集めておいた。それが現在もいると証言した安藤氏は、逸脱するアニメーターがいたという「Simon_Sin@Simon_Sin」氏の証言を補強する。
 それなのに「フモト@SFumoto」氏と「諸葛望@sakami_keniti」氏は、安藤氏の証言を「Simon_Sin@Simon_Sin」氏の証言への否定であるかのように解釈する。それこそ悪質ではないだろうか。

『ペンギン・ハイウェイ』

 なぜかペンギンがあふれるようになった郊外の住宅地。歯科に通院している小学生の男子アオヤマは、助手のお姉さんにあこがれ、結婚したいと考えている。
 アオヤマは同級生の少年ウチダと少女ハマモトとともにペンギンの謎を解こうとする。しかし、助手のお姉さんから、物体をペンギンに変化させる能力を見せられて……


 森見登美彦の小説を原作とする2018年のアニメ映画。石田祐康監督の初長編作品で、新興アニメ会社スタジオコロリドにとっても初の長編作品。

 キービジュアルから年長女性とのロードムービーと思いこんでいたが、どちらかというと子供たちだけの秘密基地の物語。主人公は年上のメインヒロインと関係を深めることを望んでいるが、同年代の男女の友人と日々をすごして街の謎を解く時間が多い。メインヒロインは子供な主人公が憧れて手がとどきそうでとどかない大人の象徴といったところ。
 一方でメインヒロインは街の謎を象徴する存在でもあり、メインヒロイン自身も知らないその正体をさぐることと、街をおおう異変から救出することがストーリーの主軸をなしている。クライマックスでは石田監督の代表作『フミコの告白』を思わせる3DCGの街を手描き作画のキャラクターが奔放につきぬけるアニメーションも楽しめ、さらにその先のペンギン板野サーカスまで展開された。
 シネマスコープサイズを活用して、広々とした世界を背景にキャラクターをロングショットで見せるカットも多い。特にペンギン板野サーカスで突入した「海」のなかで、主人公の背後の海原に透明なクジラたちが現れては消える場面が出色*1
 ジュブナイルSFとしてメインヒロインの正体はわかったようでわからないが、森の奥にある「海」とペンギンの関係の逆転は、世界の果てをめぐる問答を反映して納得感があった。


 主人公は、いつもの森見作品らしい*2、さかしらなエロガキ。しかし年齢を大学生から小学生にぐっと下げたことで、背伸びした子供として過去になく受けいれやすいキャラクターになった。
 女性のオッパイのことを考えていることを友人にとがめられて、毎日30分しか考えていないと返すように、主人公は相当のオッパイ好き。アバンタイトルでノートにつけている自主的な研究もオッパイについて。
 キービジュアルのようにメインヒロインはオッパイが絶妙に目立つデザインで、いわゆる乳袋にギリギリならない範囲で双丘のかたちを見せる。それでいて乳揺れ表現は少なく、視線を誘導して物語を追う邪魔にならないようギリギリを攻めている*3

*1:オーディオコメンタリーによると「わしお」つまり中野悟史の担当らしい。 中野悟史 - 作画@wiki - atwiki(アットウィキ)

*2:とはいえアニメ化作品しか実際には見ていないが。

*3:ペンギン板野サーカスの前後、乳揺れ作画を抑えたことをオーディオコメンタリーで言及。

『ココロ図書館』雑多な感想

 ここではないどこかの時代、僻地の図書館で司書をつとめる若い三姉妹がいた。利用者は少ないが、三人とも真摯に仕事にむきあい、図書館を存続させようと奮闘する。その背景に、この地がたどった歴史があった……


 同人活動をしていた高木信孝を、黒田洋介が原作について2000年に商業デビューさせた漫画を、黒田自身の脚本で2001年にTVアニメ化。

 全体のネタバレを知っていたこともあり、DVDを購入したものの初回のみ視聴して放置していた作品を、あらためて全話視聴。ここ最近に視聴したアニメにおけるデモ描写とのコントラストが確認できた。
『【懺・】さよなら絶望先生 番外地』 - 法華狼の日記

 良くも悪くも内容で興味深かったのが、上巻最初の、「デモ行進」に冷や水をあびせる「でも行進」。社会に対してさまざまな訴えを起こしながら、同時に「でも」と訴えに消極的な理由をつけていく。

『トモダチゲーム』雑多な感想 - 法華狼の日記

ゲーム運営キャラクターの台詞とはいえ、弱い者が声を上げることで周囲に助けてもらうことを理不尽と主張し、プラカードをかかげて声を上げるようなデモのイメージを挿入したのは閉口した。

 もともとはDVD最終巻の監督コメントによると別監督で動いていたらしいが、原作脚本もつとめる黒田洋介の依頼で舛成孝二がひきつぎ、初の30分枠TVアニメの監督をつとめることになった。

 監督の人脈のおかげか、2001年のスタジオディーン作品にしては異様に作画が良好。原作者がキャラクターデザイン原案もつとめているが、メイド調の司書制服のフリルをきちんと作画しつつ、全体の線を絶妙に減らして、目鼻立ちのバランスで原作の絵柄らしさを残している。色彩も落ちつきがあり、デジタル彩色の初期作品のわりには目に痛くない。


 以下、各話で気になった部分の感想。
 第1話、三女の初仕事を応援するための姉の策略は少しやりすぎな感じがあったが、Aパートで図書館らしい、ちょっといい話を見せて、Bパートで図書館の苦い局面に直面させつつ納得感ある結末にしているところが見事。不便な場所にある立地や、図書館は客ではなく利用者という注意や、沈んだ三女を姉が迎えにくる自動車の趣味性など、作品全体の伏線的な描写も散りばめられている。
 第2話、図書館は人気のない書籍を廃棄してベストセラーやヤングノベルや漫画を入れて利用者を集めるべきか、そうではない書籍を保存して教養の助けにするか、現実の図書館運営でも見られる葛藤を正面から姉妹の衝突として描いていて社会派作品のおもむきがある。漫画の良さを押し出す次女に、利用者増とは別の背景があるとにおわす描写も語りすぎず、前回で見せた居眠りの多さも伏線として必要充分。ただ後半にあらわれた利用者が三女のもともとの知人という展開は、そのキャラクターが初登場なのに、視聴者も知っていて当然という感じに描かれているのでとまどいをおぼえた。冒頭で電話相手などで一瞬登場させておくか、初登場の時点で短い回想をいれてワンクッションにしたほうが飲みこみやすかったとは思う。
 第3話、長女の三女に対する愛情に性愛が混じっている感じが出てきている……それはともかく、これまで名前などは日本的でも無国籍欧風だった世界に、当時の現代的な出版編集部が映ったことで世界観がわからなくなった感があった。
 第4話、縦につぶれた感じの原作の絵柄とは異なるが、キャラクター作画がかなり良い。瞳の虹彩の立体感などが良好。作画監督の塩川貴史は現在も『わたなれ』*1の総作監などで活躍中。
 第5話、頭身や身長まで大幅に変わる怪盗の変装で世界観がまたリアリティが一挙に低くなった。幼児向け絵本のような世界観と思えば、無能警察などの怪盗物のパロディを押さえていたり、かと思えば怪盗にとっても予想外の出来事が発生したりして、謎めいた本をめぐる争奪エンタメとしての楽しさがあったが。図書館という舞台をいかした主人公の選択もおもしろい。
 第6話、人間そっくりのロボットが「コンパロイド」として、幼い三女とともに特別司書として個別の試験を受ける。前回に続いてリアリティレベルが下がったが、未来的な技術のある世界とはっきりして、逆説的に世界観全体の調節はできた感じがある。そのような技術のある、いやもともと長女がパソコンを得意として図書館にも導入している世界で電子書籍が普及していないことは現在からすると整合性がないようでいて、後に明らかにされる物語世界の根底を思えば物理書籍が重視されることに違和感はない。また、細かいことだがコンパロイドではなくコンパノイドと呼ぶべきではないだろうか、とこの回では思っていたのだが……
 第10話、図書館の助成金打ち切りをつたえにくる新任の女性市長が、ずっと相手を尊重しているところが良い。優しい世界観にあわせたキャラクターでありつつ、市長個人の無能や悪意で図書館が危機におちいっているわけではないことが実感できる。助成金がなくなって図書館組織から除名されても、私設図書館として継続することは可能ではないかという議論はしてほしかったが。たとえばレファレンスサービスや図書の融通などで組織に入らないと図書館機能を大きく損なうといった説明を足せばいい。完全に偶然だが、登場する着ぐるみがウサギ型であることには、現在に視聴すると「NO WAR BUNNY」*2の雰囲気も感じられた。
 第11話、当時も話題を呼んだ傑作回。誰もが文化を楽しめる場所としての図書館が、人々の切実な感情で誕生した歴史を描く。コンパロイドの前身としてドロイドが登場し、コンパニオンとドロイドの合成語としてコンパロイドを解釈できるようになった。現在は諸事情で難しい顔にならざるをえないこでらかつゆきコンテだが、ミリタリー描写を中心としていない作品で、必ずしもリソースが潤沢ではないはずなのに、この回だけ登場するキャラクターやプロップを多く出しながら、きちんと画面に終始緊張感がある。擱座した戦車をじっくり映す特殊OPにはじまり、ほとんど静止画のスライドや待機状態だけで兵器を描写して、見ごたえがあった。ドロイドの存在は正面から死者を描写しづらい作品において人的犠牲を見せる機能があったし、今回のメインキャラクターが過去のゲストキャラクターの親世代という関係のせまさも市レベルが舞台なので不自然ではない。
 第12話、基本的に各話で助けたゲストキャラクターに助けを返してもらうパターンの実質最終回だが、もともとが市民の税金を投入することが問題視されていたため、市民が存続をもとめることがそのまま市長を翻意させる展開に同種の解決展開と比べて説得力がある。市民のデモがここまで直球で肯定的に描写される日本のアニメは珍しい*3

庁舎から見下ろす群集。図書館存続をうったえるさまざまなプラカードをかかげている。庁舎に向きあう群集を背後から映した構図。

 立地*4による利用者の少なさという問題を解決したという説明はないが、結末に本を個別に届ける三女の姿で解決が示唆されている。利用者にいちいち会いに行くという第1話や第6話で描かれてきた三女の、必ずしも作中でも全肯定はされない行動が、図書館のひとつの理想として位置づけられた。三女が行った家で本を受けとる利用者が車椅子姿であるところが、図書館の機能をわかりやすく象徴している。
 第13話、前回で本筋が終わった後のオマケ的なエピソード。主人公と親友の出会いが描かれたり、これまで長女だけだった百合アニメの色が濃い。

*1:『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』雑多な感想 - 法華狼の日記

*2:平和を願った少女が廊下に立たされている漫画を揶揄する人々は、風刺漫画とエッセイ漫画の区別がつかないのかな? - 法華狼の日記

*3:開始17分55秒、および18分。

*4:ただ戦禍からの復興でつくられた図書館だからこそ、資料を保存する場所として、あえて僻地につくられたという解釈もできるかもしれない。

『ガス人間㐧一号』

 謎の銀行強盗が連続し、密室で死体が転がる。警察は怪しい自動車を追跡した果てに、じいやとふたりだけで暮らす日本舞踏の家元の屋敷にたどりつく。その家元、藤千代のようすを警察がうかがっていると、不思議な男があらわれる。堂々と人前に姿をあらわした男、橋本は、自身のガス化能力を見せつけて社会に混乱をまねくが……


 1960年の日本映画。本多猪四郎監督、円谷英二特技監督の東宝特撮黄金タッグ絶頂期につくられ、木村武脚本による大人の犯罪ドラマを無理なく特撮アクションで完成させた。

 変身人間シリーズの第三弾だが、他のシリーズ作品もふくめてこれが初視聴。以前にDVDを買ったまま放置していたが、NETFLIXで連続WEBドラマ『ガス人間』としてリメイクされたのを機会に目をとおした。
 名作と聞いて視聴したが、たしかに見ごたえがある作品ではあった。さすがに、奇跡が重なり歴史に残る存在となった『ゴジラ』や、技術がきわまりジャンルの頂点に達した『マタンゴ』ほどではないかもしれない。しかし強固な構造の物語に怪人を絶妙に組みこんで、派手な見せ場が主張しすぎず、完成度の高いSFサスペンスになっている。


 エンドロールがない時代とはいえ、約1時間半の短い尺で怪事件の続発から怪人の登場、怪人の誕生から末路までを、怪人に援助される女性のドラマと並行して描き切り、過不足がない。『オペラ座の怪人』を思わせるドラマだが、うだつのあがらない青年が超常の能力をもつことになった怪人の設定から、堂々と人々の前にあらわれて舞台をひとりで鑑賞する余裕が生まれて、独特のキャラクターが成立している。
 援助される日本舞踊の家元、藤千代の内心がほとんど描かれないことも、時代をこえた鑑賞を可能にしている。尺が少ない結果にすぎないのかもしれないが、献身的に援助してくれた怪人に愛情をいだいてしまったとも、おちぶれた家元の矜持で舞踏を演じきるために怪人を利用したとも、さらに他の考えがあったとも解釈できる。家元の言動に映画への没入をさまたげるような理不尽さがないので、説明不足ではない、さまざまな解釈ができる余白がある。


 カラーの東宝スコープによる絵作りも良い。映画会社に一定の余裕があった時代の作品だが、特撮に予算や時間を必要としすぎない企画なのも良かったのだろう。
 おそらく常設セットも活用しているだろうが、必要なセットやロケが場面ごとに用意されていて、他の東宝特撮映画と比べても予算の不足を感じるところがない。本編も真俯瞰や自動車関係の主観的移動撮影など、他の東宝特撮では珍しいカットが散りばめられて新鮮味がある。
 人間がガス化する特撮自体は、あえて厳しくいえばアナログな手法と稚拙な合成をくみあわせただけだが、極端に良くも悪くもならないので、最初にそういう設定と許容できれば最後まで引っかかりなく鑑賞できる。細くなって鉄格子の間をとおる描写には『ターミネーター2』の敵に通じるものを感じた。
 そして特撮映画らしい派手な見せ場が最後にあるわけだが、ただ大規模な情景を見せただけで終わるのではなく、対比するように矮小な怪人の姿をスクリーンに焼きつける。ただ怪人が倒されたのではない、大規模な特撮だからこそ描けた情感がそこにあった。