法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『藤子・F・不二雄SF短編ドラマ』定年退食

 NHKBSで4月に初放送され、最近に地上波でも放送されている帯ドラマ。数十年前に発表された大人向けのSF短編を15分枠でほぼ忠実に映像化した一編。
www.nhk.jp
 原作は1973年、ちょうど半世紀前が初出。近未来SF映画『ソイレント・グリーン』からの影響が指摘されるが、以前に視聴した時は似ているとは思えなかった。
『ソイレント・グリーン』 - 法華狼の日記

藤子F作品への影響がよく指摘されるが、きちんと見比べると、それほど明らかな影響を受けているとは思えない。
特にSF短編『定年退食』の元ネタといわれるが、似ているのは文明の黄昏と自らの退場を老人が受け入れる場面くらい。ソイレント・グリーンにあたるような衝撃的な小道具は登場しない。

 逆に、昨年に公開された映画『PLAN 75』へ影響をあたえていると聞いたが、プライムビデオで見放題だが未見なままなので何ともいえない。


 この物語に登場する人々は抵抗する気力もなく、個人の食糧保存や賄賂の都市伝説で現状に適応しようとするだけ。さまざまな噂を流す主人公の友人すらクーデター*1の噂を聞かない。
 国家が老人世代を切りすてて存在意義を放棄する展開は、現代でも風刺として成立している。いや、原作が執筆された時期は人口爆発や環境破壊を止められずリソースが不足すると思われていたが、現在の日本社会は少子化のなかで気候変動を軽視しながら世代間の分断をあおっている。社会を変革する気力も、はるかに抑圧されている。
 地味に印象に残ったドラマ独自の小道具が、結末の前振りのように名も無き老人がもたれかかる排除ベンチ。現実の現代をそのままロケした風景が、原作の想定を超えたディストピア描写になっている皮肉。
 残念ながら今回のドラマを見て、同じ内容なのに風刺としての鋭さが増してしまっていると感じざるをえなかった。


 物語の結末は、衝撃や驚愕のオチでもなければ落語のような肩透かしオチでもなく、社会がたがいにささえることをやめて静かに崩れていく未来を淡々と描く。
 おかげで今回のドラマ化では知っているオチにそのまま向かう他のエピソードと違って、映像化した良さがそのまま出ていた。さまざまな原作のコマをそのまま再現したカットもうるさくない。
 15分枠で映像化できるのだろうかと不安だったが、過不足なく原作の要素をまとめられていた。

*1:原作では首相暗殺。

『1917 命をかけた伝令』

 第一次世界大戦さなかの欧州戦線。塹壕でふたりの若いイギリス兵が前線への伝令を命じられる。ドイツ軍の後退は意図的な作戦であり、追撃すれば大打撃を受けるという。ふたりは戦闘を止めるため、霧のたちこめた戦場へ進んでいく……


 2019年の英米合作映画。『ジャーヘッド』のサム・メンデス監督が、まだ個人の奮闘が意味をもつ戦場の一個人を、かぎりなくカットを割らない映像で追いかける。

 初報でも感じたが、ワンカットの長回し撮影というものは、舞台劇のようになるかドキュメンタリーのようになるか、どちらか両極になりやすい。その傾向の両方を味わった。
第一次世界大戦をワンカット長回しで描いた映画『1917 命をかけた伝令』が面白そう - 法華狼の日記

ハリボテのような廃墟など、メイキングと見比べると、舞台劇のような印象もある。

かなり時間は早送りしているはずで、登場人物のエモーションを断ち切らないために長回しをおこなっているのではないかと予想する。

 連続した緊張のなかに衝撃と弛緩が断続的に挿入されて飽きさせない。戦場を疑似体験するアトラクション的な映画として完成度が高かった。


 撮影技法としては、人間や壁をとおりすぎる場面や、暗がりに入る場面でカットを割って、デジタル技術でつなげている。しかし敵の攻撃で気絶するシチュエーションでは、明らかに時間が飛んで構図も変化している。おそらくカットを割らないことよりも、主観時間を観客と一致させることを重視している*1
 はっきりカットを割った気絶の前後でワンカットの生々しさの方向性が変わる。地をはうように戦場のさまざまな情景を泥臭く映してきたカメラが、主人公が覚醒してからは夢うつつのように作り物めいた世界を歩いていく。スポットライトのように照明弾が照らし、廃墟は広々としながら平面的な壁しか残っておらず書割りのようだ。


 ちなみにオーディオコメンタリーによると、廃屋での窓越しのふたりをタルコフスキーの影響と監督が語っていた。思えば長回しの挑戦もそうかもしれないし、過去作品で印象に残った窓ごしの演出もタルコフスキーの影響なのかもしれない。
『ジャーヘッド』 - 法華狼の日記

この映画では、手のとどかないものを「窓」の向こうに配置している。

 また、中盤にシク教徒の兵士がひとり登場している場面については、あえて史実にこだわらず現代につづいていることを描きたかったこと、たしかに軍は出身地ごとに部隊をまとめるのが通例だが該当場面は複数の部隊をまとめて移動させている最中ということ、シク教徒の部隊は1917年には壊滅したが登場するひとりは生き残りであること、といった説明もしている。
 その移動中のけだるい時間で別の場所に移動していることも意図的に場所を飛ばしていると説明している。これは先述したように主観時間の表現なのだろう。

*1:オーディオコメンタリーの序盤で、監督はワンカットではなくノーカットだと主張している。

『ノマドランド』

 石膏採掘街が閉鎖された2011年初頭の米国。寒々しい土地で季節労働のようにAmazonの仕分け作業をしている中年女性ファーンは、古ぼけた自動車で生活していた。同じように定住せず自動車で寝起きする人々と出会い、別れながらファーンは生きている……


 ノンフィクションを原作とした2020年の米国映画。ヴェネツィア金獅子賞やアカデミー作品賞に輝き、クロエ・ジャオ監督は『エターナルズ』に抜擢された。

 無機質な一点透視で映されたAmazonと、雪の残る北米の荒野。美しい景色と貧しい生活。かつて教職につくほど知的なファーンだが、安定した職も居場所もなく、危険な放浪生活をしながらスペアタイヤを用意していない落度を見せたりする。
 さまざまな定住の可能性がしめされたり、公的な支援がしめされたりもするが、ファーンはふりはらってしまう。どのような立場の人間でも尊厳はある。そして同じように放浪生活する人々が協力しあう豊かさも米国にはまだ存在する……


 ……しかしファーンを見ていてどうしても、救われるべき人ほど助けをもとめることが難しくなる問題を感じざるをえなかった。つい最近の日本で支援団体をめぐって実感的な出来事があったばかりだ*1
 不安定な雇用形態をつづけるAmazonの問題も放置されたまま終わる。放浪者の連帯は社会への抵抗にはいたらず、雇用調整に便利な放浪者を存在させつづける。もちろんそれは意図しない結果だとしても、フリーターが賞揚された20世紀末の日本を思い出さずにいられなかった。
 あと、アジア系の女性監督の作品なのに、多くの放浪者はWASPではないにしても白人男女ばかりに見える。あまり劇中でアジア人や黒人が登場しないことが不思議だった。米国には移動労働者文化*2が昔からあると劇中で語られているが、その古さが黒人やアジア人の参入をさまたげているのだろうか。
 いずれにしても、たぶん良い映画なのだとは思うが、まだ豊かさや成長の夢を見られる超大国ならではの物語と感じられた。

*1:togetter.com

*2:この映画のレビューを読んで、「ホーボー」と呼ばれることを初めて知った。たまたまだが日本語の「方々」と音と意味が似ている。saebou.hatenablog.com

『ぺとぺとさん』雑多な感想

 木村航によるライトノベル原作、西森章監督のTVアニメ。ジーベックM2制作で2005年に放映された。

 スクール水着の少女妖怪と少年が肉体にくっついた状態になる第1話など、いかにもジーベックらしいフェティッシュな少女エロコメになりそうだが、けっこうキッズアニメっぽさもある。とみながまりキャラクターデザインの適度な絵柄の古さのおかげか、それとも原作イラストの良くも悪くも幼さを表現した絵柄が結果としてアニメ美少女の記号的なフェティッシュさを消したのか。
 描線が簡素なおかげか、ジーベックにしては作画が安定しているところも良かった。


 物語にしても、マイノリティの隠喩である妖怪を地方社会が利用する問題について、意外とていねいに1クールかけて描いていた。半クール目の敵が暴力的なカッパ集団の跡取りにされた妹で、後継者の立場から逃げた姉を嫌悪しつつ重い好意を隠しているあたり、ヤクザとマイノリティの利用や搾取の関係を思い出す。
 そして妖怪を利用した地方創生*1をおこなう展開は『映画クレヨンしんちゃん オラの引越し物語〜サボテン大襲撃〜』*2や『夜明け告げるルーのうた*3、『河童のクゥと夏休み』といった作品に先行する。
 あくまでライトノベル原作らしくライトに成功していくだけかに見えて、それがボーイミーツガールな主人公カップルの距離をつくりつづけ、最終的に仕事のため物理的に遠くへ行く結末になるあたり、良い意味で児童文学のようだった。時間的に主人公がヒロインと対面する時間が減りつづけ、エロコメらしさが消えていく。ひと夏の関係が作られ終わるまでの物語として1クールできちんとまとまっていた。

*1:当時その言葉はあったっけ?と思ってコトバンクを検索すると、2014年に第二次安倍政権の政策としてはじまったと出た。 kotobank.jp実際に国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、2014年ごろから急増する。過去の用例は数少なく、異なる単語のくみあわせで文字が引っかかった例も多い。

*2:hokke-ookami.hatenablog.com

*3:hokke-ookami.hatenablog.com

『ひろがるスカイ!プリキュア』第17話 わたせ最高のバトン!ましろ本気のリレー

 ソラ・ハレワタールが体育祭のリレー選手に推薦される。リレーがスカイランドのラルーと似ていることを知ったハレワタールは、バトンをつなぐ選手として虹ヶ丘ましろも選手になることを望む。走ることに苦手意識があった虹ヶ丘だが……


 脚本の井上美緒、演出の畑野森生ともに今作初参加。最初に虹ヶ丘が映るカットからして窓の光で逆光となり、顔も画面上に切れて表情がわからず、物語の予兆としての不穏感に満ちている。物語の本筋に入っても、斜めにかたむいたダッチアングルや不安定なパースで、虹ヶ丘の不安感をあおっていく。
 もちろん特訓シーンは楽しく、初歩的すぎて意味がなさそうなハレワタールのアドバイスで笑わせ、それなりに視聴者にも有用そうな夕凪ツバサのアドバイスで説得力を出す。しかしロングショットを多用して、笑える楽しさよりも空回りしたディスコミュニケーションが起きていることを感じさせる。
 そして予期されたように虹ヶ丘はリレーで転倒するという失敗をおかし、ごまかすように校舎の影へ逃げていく。追いかけたハレワタールが日の光をあびる場所にいて、影に閉じこもった虹ヶ丘とコントラストを生む。しかし虹ヶ丘が失敗しても前を向いて走ったという、ハレワタールのアドバイスを信じた姿に、ハレワタールも救われていたと明かされる……


 梅雨前におこなわれる体育祭という現代的なシチュエーションに、これまで地球の文化を教える立場だった虹ヶ丘が意外な影を見せるドラマを、ていねいな演出で見せてくれた。
 ハレワタールと虹ヶ丘ふたりのむすびつきを描くために無駄な描写はなく、それでいてドラマを構成する基礎として家族やクラスメイトの個性的な出番もきちんとある。
 ただいかんせん、プリキュアとして戦うことがドラマと直接の関係がないことが難だった。一応、リレーのバトンのように必殺技をたくすことで敵を倒すという必然性はあるのだが、ドラマの葛藤は戦闘前の会話で終わっているし、敵の攻撃がドラマと無関係におこなわれ、本筋の完成度が高いだけに戦闘がとってつけたような印象があった。
 いっそのこと虹ヶ丘が敵によって怪物化するとか、せめて虹ヶ丘が校舎の影へ逃げて姿を消した時点で敵が攻撃してくるとか、もっと日常と戦闘をむすびつかせるプロットにできたと思うのだが……
 最終的に虹ヶ丘の再出発が歩きだした赤子エルになぞらえられたり、良い雰囲気に少しの不穏感をただよわせて終わったのは良かったが、今作のプリキュアとしてのフォーマットの弱さを感じてしまった。