法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

脅迫に言論で闘わないからと大学をクビになること以上に、表現の意図を説明できなくて編集者にボツにされることが、優先的に批判すべきことなのだろうか?

「バイアス」が一般的に悪いものだという合意すら今のインターネットでは難しいのだろうか - 法華狼の日記
上記エントリに対して、はてなブックマークid:srpglove氏が下記のようにコメントしていた。

srpglove 「喫煙描写を禁じる編集部のルールと争って負けた体験を語りながら提案していることから、このガイドラインは一種の皮肉と読むべき」じゃあ「ガイドライン」導入に無条件に賛同してる人たちをこそ批判すべきでは…?

私の解釈でいえば、全面的な禁止ほどのルールが現実化する動きでもないかぎり、優先して批判する必要があるとは思えない。
そもそもsrpglove氏のいう「無条件に賛同」がどのような想定で、「人たち」がどこにいるのか、私は知らないので批判しようがない。


念のために説明すると、下記インタビューから私が読みとった「皮肉」とは、ジェンダーバイアスガイドラインを導入するべきではないといった反語的な解釈ではない。
「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」。漫画家・楠本まきはなぜ登場人物にこう語らせたのか | ハフポスト

だったら同じように、ジェンダーバイアスにも何らかのルールを作ればいいと思うんですよ。バイアスのかかった表現については「なぜこれを描かなくてはいけないのか」と作家に説明を求めて、(編集部が)納得させられたら載せるし、納得できないものは載せない。そういうガイドラインを、他の差別的な表現に対してと同様にジェンダーに関しても作ればいい。

すでに存在するさまざまなルール、なかでも楠本まき氏が具体的に説明した喫煙描写の禁止と比較して、なぜジェンダーバイアスにはガイドライン*1がないのかという問いかけと読んだ。
その解釈を延長すれば、ジェンダーバイアスガイドライン表現の自由の侵害になるならば、すでに存在するより強固なガイドラインが優先的に批判されるだろうという挑発にもなる。


私の見た範囲では、楠本まき氏に賛成する意見のなかで、ガイドラインを署名活動などで現実化しようとする動きなどは見当たらず、せいぜい問題提起の段階にとどまっていた。
逆に、楠本まき氏に反対する意見のなかで、あくまで虚構のガイドラインよりも、現実に存在する喫煙描写などのガイドラインを優先して批判しようとする動きは見かけなかった。
あくまで一例だが、やりとりしたid:type-100氏のように、虚構の考えと現実の考えを、その実効性をまったく無視して同等にみなす意見もあった。
漫画家と法哲学者の両方が「第三者の放言」をしたとして、その内容のどちらがより悪質な抑圧だろうか?という問題 - 法華狼の日記

表現者が意図の説明を要求される虚構の抑圧と、被害者に特段の説明が要求される現実の抑圧。ひとつの表現を発表媒体に載せてもらえないことと、約束をたがえて仕事そのものが失わされること。どちらがより悪質だろうか?

はてなブックマーク - 漫画家と法哲学者の両方が「第三者の放言」をしたとして、その内容のどちらがより悪質な抑圧だろうか?という問題 - 法華狼の日記

type-100 「ツイートの考えが」でしたら概ね異議はありませんが、「発表媒体に載せてもらえない」がそんなに軽いことだとは思いませんし、「考え」でしたら虚構か現実かは関係ないでしょう。

一般的に、表現を媒体にのせる権利は編集側がもつし*2、そこで表現の意図を作家に問うことは判断の基準として不当とはいえないだろう。
type-100氏は極端だとしても、楠本まき氏への批判においては、編集が表現をボツにすることが脅迫の負担でクビにすること以上に重大な自由の侵害であるかのような反応が散見される*3
作家の側に立つならば、編集の制約などいっさいなく作品が掲載されるべきという主張は理想だろう。しかしそれがかなわない一般的な現実を無視して、提案しただけの楠本まき氏が批判されるのはなぜだろうか。

*1:また、インタビューをきっかけとしてガイドラインを導入する動きがあってとして、たとえ批判することになるとしても、楠本まき氏とは独立したものになるだろう。インタビューで楠本まき氏が提示する「ガイドライン」は、そのまま現実化したとしても、表現そのものはいっさい制約されないものになるだろうからだ。

*2:念のため、表現の現場を制約するかたちで編集権が行使されるという問題はありうる。これに関連して、作品制作を作家の主体性のみで考えるか、編集と作家の共同作業として考えるかという、それぞれ現実においても理念においても存在しうるふたつの立場の、後者で楠本まき氏が語っていることは、ここで「皮肉」という解釈を争っていることよりも、ずっと大きな行き違いを生んでいる。くわしくはエントリをあらためて説明する予定。それとは別に、編集者が決定権を行使する時に、実作業に対して充分な対価がしはらわれないという労働問題として問われる状況は考えられる。さらに、別の媒体で発表する自由が作家にはあるはずなのに、原稿を編集部が返却しないことで、一媒体への掲載拒否が事実上の全面的な表現規制として慣例が作用する問題も考えられる。

*3:偏見的表現に説明を求めることが表現規制あつかいされるところを見て、脅迫被害者に説明を求めた法哲学者を思い出す - 法華狼の日記への反応の少なさを、傍証として提示しておく。