法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

戦争についての、それぞれの立ち位置

その反論はまずい。
革命的非モテ同盟跡地

幸か不幸か私は銃で撃たれたことも、何ヶ月も飢えに苦しんだことはありません。

だから、彼らがどのような苦しみを味わったかをリアルに想像することはできません。


壕を掘ったり、鉄砲を撃ったり、鉄砲持って吐くまで走ったり、泥水すすりながらほふく前進をしたり、クソ重たい防弾チョッキが冬はすこ暖かかったりした記憶こそありますが、それでも殺された人々の気持ちはわかりません。

クラウゼヴィッツにリデル=ハート、毛沢東と様々な本を読んできましたが、それでも私は戦争のリアルが分かりませんでした。

はたして、id:gonzales66氏には、それが分かるのでしょうか?

私は、必死に戦争について勉強をしましたが、ついぞ、その戦争をリアルに感じることはできなかったのです。

血を吐くように戦争を知りたいと願い、それでも現実の手ざわりを得られなかった人が「戦争をリアルに感じることはできなかった」というなら、その言葉には一定の価値があると思いたい。だが注意しておきたいことがある。
http://d.hatena.ne.jp/gonzales66/20090607/1244372919*1

自分の親からは戦中、戦後のひもじさの経験をいつも聞かされていたし、今よりも日本の戦争は身近な存在だったような気がする。

そんな風に、世代での違いについて考えたりもしたが・・・やっぱり違うな。

たった70年前に起きた出来事を実感できないというのは想像力が貧しいからだと思う。

戦争をリアルに想像できないのか、想像したくないのか?

久しぶりに、こうの史代の「夕凪の街 桜の国」を読み返しながら、そんなことを思いました。

論争の発端で記述された『KANON』と対置するように、同じフィクションである『夕凪の街 桜の国』へgonzales66氏は言及していた。
語るべきは、必ずしも自身の経験ではない。『夕凪の街 桜の国』は原爆の惨禍をかかえた人々の物語だ。原爆を投下した人々の物語ではない*2
しかしfurukatsu氏が持ち出した記憶は、戦争の被害者に繋がる経験とは考えにくい。明らかに撃つ側に連なる記憶だろう。
読んだ書籍も「クラウゼヴィッツ」「リデル=ハート」「毛沢東」といった名前が並ぶ。もちろん日中戦争以前の「毛沢東」は大国に侵略された者とはいえるだろうが、その時でも指導者ではあった。なぜ、指導者よりはるかに数が多いだろう戦争被害者の書籍を提示しなかったのだろうか。


時間がないので簡単に書いておくが、そもそも今回の問題は、現実と現実感への過剰な信奉にあると思う。体感信仰が疑似科学歴史修正主義に繋がり、差別にまでいたる例は少なくない。
しばしば現実は現実感がない。異常事態ならばなおさらだ。大災害を目撃した人が「まるで映画のよう」と語ることは珍しくないだろう。
その意味でgonzales66氏の「想像力が貧しい」という言葉は、必ずしも当を得ているとはいわないが、多くの示唆に富んでいる。

*1:太字強調は原文ママ

*2:中盤の問いかけで、原爆を投下した人々も物語の射程には入っている。