法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『この世界の片隅に』そしてさらにその片隅に

以前に、『原爆文学という問題領域』という川口隆行広島大学准教授の著作を読んだことがある。原爆をモチーフにした様々な表現を評し、それが受容された過程や原爆観の変化も論じ、表現を脱政治化しようとする欲望へ警鐘を鳴らす内容だった。
こうの史代夕凪の街 桜の国』に対しては、復興の手が届かない被爆者を中心的に描きながら在日朝鮮人被爆者の存在が回避されており、おかげで2ちゃんねるをふくむ広い範囲で高評価されたのではないか、という指摘が印象に残った。しかし、現実を切り取る表現において全てを描き切ることは不可能だという留意もされており、全体的には高評価していると感じた。


しかし読み進めていくと、こうの史代氏がファンクラブの掲示板で残念な発言をしていたことも知った。その内容は川口准教授のブログでも批判されている。
http://ameblo.jp/kawataka/entry-10004305360.html*1

さきほどファンクラブの掲示板をもういちど眺めていた。やはりどうしてもひと言いいたくなる箇所がある。
谷沢永一か渡辺昇一の発言かと目を疑わずにはいられない、作者自身の次のコメントである。(投稿者: こうの史代  投稿日: 9月11日(日)00時57分6秒)

 まあでも、山口氏の文章でいちばん意外だったのは、実は、日本に暮らしながらこの国を好きでない人がいる、という事でした。

私は日本が好きか嫌いかなんて質問は他人にしないし、そんな質問をされても多くの場合は答えない。そもそもそんな問いは粗雑な踏絵でしかない。

表現者としてどうのこうのとか言う以前の、想像力の欠如というのもおこがましい低次元の話だ。あなたのすぐ隣には、現在はむろん、過去にだって、未来にだって「日本」を憎悪し、うらみ、軽蔑していった(していく)無数の存在だっているんだよ…なんて声を荒げて言うのも虚しい(愛憎入り混じるってことだってあろうに)。

これは2005年9月2日号の『週刊金曜日』で書かれた、『夕凪の街 桜の国』への山口泉氏評を受けたものだ。こうの史代ファンページのWIKIで内容が確認できる。
雑誌等 - こうの史代ファンページ

 問題は何か。本書の性格を象徴するのが、巻頭の献辞だ。
「広島のある日本のあるこの世界を/愛するすべての人へ」−。
だか「この世界」は愛したくとも、「日本のあるこの世界」など、終生、拒絶
せざるを得ない人々が、現に日本の内外に存在する。少なくとも日本は、
1945年8月、突如として、この地上に出現した国ではない。「平和」を、
真に人間普遍の問題として共有しうるためには不可欠の、地を這うように困難な
手続きをあらかじめ回避したところに、この物語は成立している。
 本書の抱え持つ脱政治性ともいうべき傾向が、事柄のいっさいを「無謬
(むびゅう)の「桜の国」の美しい悲劇」へと変質させかねないことを、私は
危ぶむ。そして、痛ましくも口当たりの良い物語の「受け容れられやすさ」が、
被爆」を単に「日本人の占有する不幸」にのみ矮小化し、さらには新しい
ナショナリズムに回収される迷路へと誘(いざな)う場合もありうることを、
私は恐れる」

なお、山口氏は同時に巧妙な作品とも評しており、全否定をしているわけではない。ちなみに『夕凪の街 桜の国』の後書きでは、日本はあくまで「数少ない」被爆国であって唯一というわけではないと作者自身が留意している。


さて、「日本に暮らしながらこの国を好きでない人がいる」ことを知らなかった作者が、再び原爆投下前後の日本に住む人々を描いたのが『この世界の片隅に』だ。
細やかな生活が描かれ、被爆者の自己嫌悪を救おうとする主題はそのままに。絵を描くことを特技として持つ女性を主人公にすえて、マンガという表現形式をメタに活用し、虚構の力で現実にあらがおうとする物語を描ききった。
空想であるかのように描かれた出来事が、作中現実において主人公を救っていく。しょせん悲劇もまた一面的な表現にすぎず、現実はもっと鮮やかで幸いもあるのだと謳うように。主人公に作者が投影されていると見てもいいだろう。


ここまでなら、依然として「美しい悲劇」にすぎないという評価もありえただろう。
だが今回の作品は、原爆が投下されてからと、戦争が終わるまでの間も克明に描き出す。被爆者という被害だけが残った日々を描くのではなく、なお戦争を続ける日本の加害も頁の外で描かれ続ける。
だから終戦記念日玉音放送を聞いた後、主人公は慟哭する。最後の一人まで戦うのではなかったのか、納得がいかない、と。終わった終わったと周囲が口先だけでも安堵した後での言葉だ。ここで、苦しい戦時下を懸命に楽しく生きていたかに見えていた主人公こそが、激しく内面へ抑圧を受け続けていたことが明らかになる。
そして屋外へ飛び出した主人公は、遠くの屋根に太極旗がひるがえっている光景を見て、ようやく片隅で生きていた自らも他者を抑圧していたことを知る。「暴力で従えとったいうことか」「じゃけえ暴力に屈するという事かね」と吐露する主人公の台詞を、「意外だったのは、実は、日本に暮らしながらこの国を好きでない人がいる、という事」という作者の言葉に重ねることは難しくない。作者自身も、玉音放送の描写を「山場」ととらえていたという*2
むろん主人公と作者を安易に同一視することは危険ではある。だが、この太極旗の描写は、作者がきちんと作品の提示をもって、山口氏や川口准教授の批判にこたえたものだと考えたい。


玉音放送後の主人公の吐露は衝撃的であり、多くの感想で言及されている。だが、太極旗が描写された意味に言及する感想は少ない。実際、わずかひとつのコマに太極旗が小さく描かれているだけであって、在日朝鮮人の顔どころか姿すら明確には登場しない。
それでも、その小さく戦後も長く抑圧され続ける旗が、頁に刻まれた意味はある。共感の対象として描かれてきた主人公の感情を、もはや読者は安易に切断処理できないないはずだ。そして、他の戦時下を描いた作品を観る時にも、たとえ作中で明白に描かれなかったとしても、苦しむ日本人が同時に他者への抑圧を続けていることを認識できるはずだ。

*1:引用時、文字色変更を排し、引用符を引用枠へ変更した。

*2:http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/konosekaino-katasumini2.htmlで作者自身の言葉が引用されている。なお、先日のドラマ版は、太極旗に対応する台詞を主人公以外が発し、太極旗の描写もないことで、画龍点睛を欠くこととなった。主人公の生活する身近で抑圧していたことが要点だろうに。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20110806/1312644314