法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『黒い雨』

1945年8月6日、小さな船で瀬戸内海をわたっていた高丸矢須子は、コールタールのような黒い雨にうたれた。5年後、叔父と叔母にひきとられた矢須子のところに、結婚話が舞いこむが……


井伏鱒二による1965年の同名原作をもとに、1989年に今村昌平監督が映画化。原爆投下の特撮や特殊メイクは当時の最新技術*1を用いつつ、あえてモノクロで撮影されている。

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キノコ雲の合成や停車している列車の爆破シーンなど、原爆投下のカタストロフは映画らしい力のこめよう。全身ケロイドになった少年の特殊メイクも痛々しい。モノクロも特撮の稚拙さを隠し、同時代の撮影のように感じさせる。
しかし物語の本筋は、原爆症による不安をかかえながら戦後の日々をすごしていく人々の群像劇だ。矢須子が原爆症ではないと縁談相手に証明するため、叔父が日記を清書したという形式で、淡々としたモノローグが画面に重ねられる。
叔父が「正義の戦争より不正義の平和」*2を語ったりと、メッセージをはっきり台詞にしているが、田舎のインテリらしいキャラクターには合っているし、「声高」な印象はない。


何より印象深いのが、原爆症そのものの明確な恐怖を描くというより、どこから戦争の後遺症なのかというボーダーラインな不安を描いた作品であること。
まだ原爆症重篤化していない働き盛りの男達が、のんきに池で釣りをしているところで、労働している女性が通りがかって嫌味をいったりする。現代社会で生活保護受給者らに向けられるまなざしとも通じる描写だ。
映画の後半で不安にかられた叔母が、拝み屋にすがったりもする。拝み屋の言葉が今でいうコールドリーディングでしかないと叔父は指摘するが、墓参りすべしというアドバイスは悪いことではないと叔母は反論し、かたくなになっていく。たよれる女性と前半で印象づけられたからこその落差が悲しい。
不安を呼びおこすのは原爆症だけではない。いつもは温和に彫刻活動をつづけている青年が、ひとたびエンジンの音を聞くと戦車と思いこみ、捨て身の攻撃を自動車やバイクにしかけていく。その行動を体をはって止める苦労は、不安なだけの原爆症よりも日常的といっていい。
放射能のある「黒い雨」を矢須子が浴びたことも、むしろそれだけならギリギリセーフと位置づけられている。矢須子が直接被爆したという噂を否定するため、叔父たちが縁談で積極的にアピールするくらいだ。


もちろん原爆症によって人々が亡くなっていく局面もあるが、苦しむ姿を長々と映すことはしない。
矢須子の物語には明確なピリオドが打たれないまま、希望と不安のあいだをただようように画面から消えていく。
はっきりと被害は見えない、むしろ被害を隠そうとすらする、そんな境界線へと注目をうながす物語として、反核にとどまらない普遍性が感じられた。

*1:NHKがハイビジョン技術を提供したことがEDでクレジットされている。

*2:機動警察パトレイバー2 the Movie』の中盤のやりとりの元ネタだろうか?