手塚治虫作品『ブラック・ジャック』において、最も印象的な物語の一つが「しずむ女」だ。
それぞれ原作は29話で単行本4巻に、OVAはKARTE10で最終巻に収録されている。
公害病が発生した地域に企業が医療補償するため招かれた、ブラックジャック。そこで、歩行と知能に障碍をかかえつつも、人魚のように泳ぎが巧みな少女と出会う。ブラックジャックは医療免許を持たないことを問題視され補償活動から外されるが、独自に公害病を追い、少女を治療しようと奔走する。
天才的手術のイメージが強い『ブラック・ジャック』だが、実際にはリハビリや術後の物語も多い。主人公のブラックジャックからして全身に傷を負っており、長いリハビリをへて医者となった経緯がくりかえし物語られている。「しずむ女」もまた、病気と長くつきあっていく少女を通し、長いリハビリの日々と、ただ生活することすら困難な社会の姿が描かれる。
原作からの変更点が多い出崎版OVAでは、比較的に忠実に作られている。大筋は結末まで原作通りに近く、細部に独自の演出や描写を入れている*1。
しかし今回たまたま目を通して*2、原作に明示されOVAで隠された部分として、作品の主題へ大きな影響を与えるかもしれない描写に気づいた。それは、少女が知的障碍者となった原因だ。
原作では、公害病原因物質の重金属が足関節だけでなく脳神経にも影響を与えていることが示唆され、企業から金銭補償をとりつけようとするブラックジャックの行動に繋がる。対してOVAでは、少女が知的障碍者となった原因は明らかにされず、公害病で崩壊しつつある地域社会において補償を受ける能力もない者として生活が困難になる姿が描かれる*3。補償が受けられない理由も公害問題へ収束する原作に対し、OVAはより広い視点で公害補償が描かれる。左遷覚悟とはいえ企業側の人間からブラックジャックに深く協力する者もOVAには登場し、特定企業を糾弾すれば解決するという物語では全くない。より複雑で、普遍性をもった物語として提示される。
もちろん、原作「しずむ女」も悪くない。二重に虐げられた者の姿を描くにあたって、短い頁数*4で他の方法はなかっただろう。原作の描写があればこそ、公害病に対する補償を受けられるようになってさえ、その補償を得ることのハードルがいくつもあること、補償を受ける者の間にも階層が存在することをOVAは描くことができた。
原作を咀嚼した上で、別の視点が加わり、新たな価値が生まれた「しずむ女」。濃厚な出崎演出、寓話性の強い展開には、もしかしたら違和感を持たれるかもしれない。だが、もし興味をもたれたなら一見の価値はあると思う。