法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『世界まる見え!テレビ特捜部』大失敗SP

破天荒な生活をつづけるジョニー・デップの半生や、チリ・サンティアゴ国際空港の税関捜査など。
前者は手切れ金125憶円が北野武より安いというエピソード以外は、良くも悪くもハリウッドセレブだなと思うところ。後者はカナダやオーストラリアの恒例の番組と違って、全体的に捜査官が高圧にふるまっていたのが印象的だった。


何より面白かったのが、父娘のサバイバル。幼い娘にいいところを見せようとして、思いつきで行動をつづけ、ドツボにはまっていく父の姿が泣けて笑えた。
釣れる場所があると嘘をついてしまい、道を外れて乾燥した荒野をつきすすみ、パンクしていくタイヤ。3本もつんでいたスペアも全てパンクさせてしまい、しぼんだタイヤ1本とバランスをとるため反対側のタイヤの空気を抜くという意味不明な行動をとって、それでエンジンに負担がかかってオーバーヒート。20リットルもあった飲料水を冷却のため消費したあげく、とうとう自動車が炎上して荷物を燃やしてしまう。
携帯電話を通じさせるために電波塔まで歩いていったが、電波塔にのぼっても電波は通じない。飲料水は残り少なく、上空を飛ぶ飛行機にも気づいてもらえず*1、陽光で衰弱した娘に土をかぶせてやることしかできない父。たまたま自動車がとおりがかったおかげで命をつなぐ。
生存後の父が語る構成のおかげで死ななかったことはわかるので、ある意味で安心して情けない姿を笑うことができた。もちろん、その場所の本人の気持ちになれば笑いごとではないだろうが、アンチサバイバル番組的なおもむきも感じられて、良い反面教師ではあった。

*1:地面にSOSを描くようなことすらしていない。

『スター☆トゥインクルプリキュア』第26話 ナゾの侵入者!?恐怖のパジャマパーティ☆

羽衣ララの兄から知らせを受けて、故郷の惑星サマーンに向かう一行。羽衣は仲間がついてくることに難色を示したが、ちょうど夏休みのため、家族に断りを入れて長旅も可能となった。楽しみにしすぎて寝不足の星奈に、周囲は一眠りすることを勧めるが、逆に星奈はパジャマパーティーを始める……


番組の折り返しらしく、OPがユニが新プリキュアとして参加した映像に改変。
作画も稲上晃とアリス・ナリオの共同作画監督で、よく整っていた。


脚本も折り返しらしく村山功シリーズ構成が担当。舞台を制限して動きのない物語を、キャラクターを再確認するようにまとめていた。
目的地へ移動する宇宙船内で一話分つかうコンセプトは、同じ村山功シリーズ構成脚本の『魔法つかいプリキュア!』第31話を思い出させる。
『魔法つかいプリキュア!』第31話 結晶する想い!虹色のアレキサンドライト!! - 法華狼の日記

前々回に入手した新アイテムを初めて使った強化変身回だが、思いきって異空間でドラマを終始させるというコンセプトが良かった。

もちろん似たコンセプトであっても、少人数で異常事態に巻きこまれて距離を縮める『魔法つかいプリキュア!』と、多人数で移動することを楽しむ今作で味わいは異なる*1
特に、もはや懐かしいアイテムとなったVHSテープによる上映会で、キャラクターの距離感をしっかり描いていること印象的だ。早口で内容を紹介する星奈、楽しみながらネタバレは嫌う香久矢、あきれながら鑑賞につきあう羽衣、ちょっとしたことで怖がる天宮、近くにいるが参加はしないユニ……同じ感想をもつキャラクターがいないことが、ひとりで友だちをつくらず日々を楽しんでいたという星奈の述懐に説得力をもたらす。
他にも留学の予定を語る香久矢や、家族を支えるため忙しい天宮など、パジャマパーティーでコミュニケーションしやすくなったからと、逆にひとりひとり別々の生活があることを語りあい、今作ならではの面白い距離感を生みだしていた。

*1:ちなみに『アニメージュ』2019年7月号の村山功インタビューによると、『魔法つかいプリキュア!』をやったためもうプリキュアに参加するつもりはなかったことや、他スタッフから上がったアイデアを『魔法つかいプリキュア!』でやったと指摘して選択肢をせばめる立場になっていることを、やや自省的に語っている。

従軍慰安婦問題の記念碑へのテロは今回が初めてではなく、かつて記念碑へのテロを呼びかけた人物が今では与党議員になっているわけで

「あいちトリエンナーレ2019」の一展示としておこなわれた「表現の不自由展・その後」が、暴力を予期させる抗議によって中止に追いこまれたという。
「撤去しなければガソリンの脅迫も」企画展中止に知事 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

大村知事は会見で、「これ以上エスカレートすると、安心して楽しくご覧になることが難しいと危惧している。テロ予告や脅迫の電話等もあり、総合的に判断した。撤去をしなければガソリン携行缶を持ってお邪魔するというファクスもあった」と説明した。

そもそも「表現の不自由展・その後」そのものが、さまざまな理由で抑圧されたことのある表現を集めた展示であり、日本社会における表現の抑圧を記憶するものであった。
表現の不自由展・その後

近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。

この展示への反応として、抗議への正面からの同調を避けつつ、「黙殺」や「無視」を呼びかける意見が散見された。反発したいが批判すれば価値を認めてしまうという心象からきているようだ。

しかし現実には、黙殺できず無視されなかった作品を集めた展示だ*1。反発する価値もないと主張したがる人々は、根本的にコンセプトを理解できていない。


また、 ライターの林智裕氏のように、「主催者側の政治的志向や好み」で排除された作品も入れるべきだという理由で、「ダブルスタンダード」という主張もある。

いったん展示を認めながら公権力の圧力や脅迫に屈して撤去されることと、主催者側の政治的志向や好みで最初から展示されないことが、 林智裕氏にとっては同じスタンダードらしい。

もちろん、左派に位置づけられる立場でも、局面によっては権力を行使できる立場にふくまれるだろう。しかし、それにより弾圧された表現をコンセプトにそって集められるほど、日本で左派が政治的に優位な局面は多くない。
なお、林智裕氏は「表現の自由」に優先順位をつける下記ツイートをリツイートしている。京都アニメーションへの放火事件の、最悪の政治利用のひとつと思わざるをえない。

また、帝国主義の犠牲者の記念碑や国家最高権威者への批判表現と、ホロコースト否認論のような偽史や人種差別表現を、同列にあつかうツイートもリツイートしていた。

これでは人権や科学についての見識を林智裕氏に期待することは難しい。


前後して、林智裕氏は弾圧被害者を日本社会が守れなかったことをもって、日本社会が海外から批判される原因になるだろうと予測し、それを理由に弾圧被害者を批判している。

弾圧を呼びこんだことをもって、弾圧被害者を批判する。非常にねじまがった論理ではあるが、同じような意見は少なくない。
しかし上述のように、そもそも弾圧された表現を集めた展示である。今回の展示さえなければ弾圧された事実が消えるわけではない。


何より、報道等で焦点となった従軍慰安婦問題の記念碑について、爆破テロを呼びかけた人物を、日本社会は再び国会に送りこんだ。
杉田水脈(日本のこころを大切にする党・落選議員)、慰安婦像爆破テロを推奨? - Togetter

それも泡沫議員ではなく、現首相に重用された与党の一員として。これは林智裕氏の否認するような意味で「我々」の、日本社会の問題だ。
ちなみに杉田水脈氏のツイッターを見ると、脅迫こそ「あってはならない」と表面では否定しつつ、展示を中止させたいかのようなツイートをしていた。

さすがに政府与党の一員である自覚はあるだろうし、政治家が展示の抑圧に動いていたことも認識しているだろう。つまりこのツイートは公権力による表現の抑圧をおこないたいという宣言だ。
もちろん一議員の発言にとどまらず、ウィーン条約を口実とした在外公館近辺にとどまらず、日本の政府や各地方は世界各国において従軍慰安婦問題の記念碑へ圧力をかけつづけている。

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

上記書籍で説明されているように、像を支持する日系人団体への補助金打ち切りなど、批判や抗議にとどまらない公権力による抑圧が続いている。その意味でも、今回が初めてではないのだ。

*1:ちなみに「表現の不自由展」そのものは2015年におこなわれ、2019年の今回はそれを踏まえたもの。なおかつ作品選択は実行委員会がおこなっているようだ。津田氏は企画した主催者として責任を負うべき立場だが、あたかも作品選定を津田氏個人がおこなったかのような認識は正しくない。表現の不自由展、中止に実行委が抗議「戦後最大の検閲」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

『ドラえもん』大パニック!のび太のヒマワリ日記/けん銃王コンテスト

のび太の誕生日SPということで、それらしいエピソードが放映された他、エンディングものび太版に変更。


「大パニック!のび太のヒマワリ日記」は、ドラえもんが草むしりのため、草を抜く植物を秘密道具で作りだす。それを見たのび太は、改造した植物の観察を自由研究にすることを思いつくが……
原作短編「だいこんダンスパーティー」に登場する秘密道具「新種植物製造機」を使ったアニメオリジナルストーリー。夏休み序盤にあわせた季節ネタでもある。
パクキョンスンコンテに腰繁男演出とベテランが担当した回だが、映像の工夫が多くて面白かった。日差しの強い青空を映して、次のカットでデジタル技術を使って窓ガラスに青空を反映し、のび太の部屋へとカメラを移動させたりする。観察日記でもクレヨンで描いたような絵をはりこんだり。
生まれたばかりのヒマワリは赤ん坊のようで、そのまま「のび太の恐竜」のような子育てエピソードが始まるかと思いきや……一夜が明けて状況が一転。反抗期になったヒマワリは横柄な態度でドラえもんたちに命令しはじめ、庭の日陰へ放置される結果となる。陽光の有無をていねいに映像で描写していたのは、この展開のためだろう。
そこからヒマワリが更生する展開にもならず、秘密道具を盗んで改造植物が街へ蔓延するパニック状態に。個々のトラブルはコメディタッチで描かれたが、まさか「人間製造機」のようなエピソードとは予想できなかった。期待とは違うが、これはこれで悪くない。


「けん銃王コンテスト」は、モデルガンで遊んでいるジャイアンたちに対抗して、のび太の拳銃の腕前を認めさせるため、秘密道具を使って街中で西部劇ごっこが始まる……
2005年リニューアル初期に腰繁男コンテ演出でアニメ化した短編を、実際の西部開拓の銃撃戦を魅力的に描いた「ガンファイターのび太*1の山口晋コンテで再アニメ化。
のび太が拳銃がうまい設定の初出となるエピソードを、忠実に映像化した。たがいに敵となるコンテストで自然発生的に共闘が組まれたり、地形を活用した戦いが展開されたり、FPSゲームのような面白さがコンパクトに凝縮されている。
それでもいくつかアニメオリジナル描写があって、どれも納得の追加描写だった。ひとつはスネ夫と安雄が共闘を組む時、早撃ちを提案した安雄にスネ夫が共闘をもちかけるという過程を描いたこと。それぞれのキャラクターらしさがあり、より共闘する流れが納得できる。もうひとつはのび太が小道で撃たれたかに思わせて、それは玩具の銃をもった子供だったこと。原作にまったくない描写ゆえの高いサプライズ性があり、のび太が残弾数を間違える原作通りの流れの説得力も増した。のび太は銃関係なら頭がまわる描写が後々多いのに、設定初出ゆえ現在では違和感が少しある部分をうまくフォローしたわけだ。

従軍慰安婦問題を描いた表現が日本社会のタブーになっていることは、厳然たる事実だろう

「あいちトリエンナーレ」で日本のタブーのひとつとして、日本軍慰安所制度を告発し記憶する作品がいくつか選ばれたという。
タブー破り、日本最大の芸術祭で展示される“少女像” : 日本•国際 : hankyoreh japan

少女像が日本に留まっている理由は、2012年に遡る。2012年8月、キム夫妻は東京都美術館で開かれた展覧会に、高さ20センチほどの「模型少女像」を展示したが、美術館側によって展示中に会場から撤去された。

今回の展示には、日本社会のタブーに真っ向から挑戦する他の作品も展示される。2017年、日本群馬県近代美術館で展示される予定だったが、展示を拒否された「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」が代表的な事例だ。

2012年の作品撤去については、別の政治的な美術が排除された問題の背景として、下記エントリで言及したことがある。
東京都美術館から政治性をおびているとして作品が撤去された背景について - 法華狼の日記

東京都美術館がクレームをおそれるようになった背景に、従軍慰安婦をモチーフにした作品が抗議された過去があるという。赤旗が美術館側の主張として報じていた。
靖国参拝批判の作品 撤去要求/東京都美術館 「政治的メッセージ」/作者 「表現の自由侵す」

経緯を追っていくと、都美術館が抗議に対して萎縮しつづけ、政治性が選択的に見いだされて排除されてきたことがわかる。
作品の巧拙は自由に評価すればいいとして、表現の自由の観点からは、まず美術館とそれをとりまく社会の問題としてとらえるべきではないだろうか。

2012年に開かれたのは、「戦争、抑圧の不条理に眼と心を向け、人々に率先して美術表現で提示するのが美術家の使命である」と考える国際的な美術家交流団体による展示会だった。
そこで軍事の犠牲となった女性を記憶する作品が選択的に排除されたことで、タブーとしての強さを印象づけられた。


選択的な排除としては、「憲法と平和」をテーマにした展示会から条文を筆写した作品が「政治色が強く思想的」として撤去されたり、報道写真展がよくおこなわれる場所で元慰安婦展が中止に追い込まれた事件もある。
「憲法と平和」をテーマにした展示会で、憲法の条文を展示したところ、「政治的」という理由で撤去されたとのこと - 法華狼の日記
「売国行為やめさせよう」と主張して、自国における表現や言論の自由を攻撃するという売国 - 法華狼の日記
これらの事例では、国家が建前としてかかげつづけ、あるいは悼んでいるはずの犠牲者が、排除されるべき表現とされてしまった。
あらかじめ作品として堪えないという評価がされたのではなく、表現することそのものへの抗議に屈したことから、日本社会のタブーになっているといえる。


はてなブックマークを見て不思議なのは、日本社会にタブーがあること自体を否認する反応があること*1。上記のような事例が記憶になくとも、記事にいくつか説明されているのに。
[B! 芸術] タブー破り、日本最大の芸術祭で展示される“少女像” : 日本•国際 : hankyoreh japan

id:hunyoki はい、タブーではないのでどうぞご自由に

id:ite 別にタブーじゃないだろ。あいちトリエンナーレってそんなイベントなんだ、と思うだけ。あとなぜ米軍の車にひかれた少女の像を「慰安婦」とか嘘ついてるんだろ、とか、そうした意味不明な情の重視は異文化だなと思う

id:oktnzm いや法的に問題ないなら好きにやればいいのでは?大使館前とかウィーン条約に違反するような場所に設置するから問題になるんでしょうが。

id:dot こんなのタブーでもなんでもないでしょ。現代アートとして美術館に展示するのくらい気にせずにバンバンやればいいと思う。

id:millipede タブー破りの少女像と聞いて少女がレイプされてる芸術無罪児ポ像かと思った……この程度で何がタブーなのふざけてるの

id:tamaso 「日本社会のタブー」にそんなものないし、日本社会のタブーを「外の」人がどうやって知るのか。


他に批判すべきコメントや真意を問いたいコメントもいくつかあるが、それはさておいて今回に気になったのが下記のコメントだ。

id:voodoo5 この手の像が慰安婦の象徴と言われてもなあ。元々は米兵に轢かれた女の子の像の流用だったのにね。

引用したite氏のコメントもそうだが、このように少女像の実際のモチーフが異なるという噂がまことしやかに流布されている。インターネットの一部では確定した真実のようにあつかわれているが、その主張がどのように生まれたのか、よくわからない。
像の作者は民主化運動の元闘士であり、従軍慰安婦問題のみをテーマにしているわけではないことは事実だが、そうした作品は別個に作られている。
《少女像》はどのようにつくられたのか? 〜作家キム・ソギョン、キム・ウンソンの思い | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任

作品群には、米軍装甲車にひかれ死亡した中学生を追悼する作品(*3)や朝鮮半島の統一を願う作品などがあります。

*3 2002年、米軍装甲車にひかれて亡くなった女子中学生ミソンさんとヒョスさん九回忌に追悼のために制作された。

そもそも、仮に噂が事実だったとして、それが批判の根拠になるかのような主張がよくわからない。
最初は別の事件を記憶するために制作された像であったならば、それはより普遍的な視座をもつ記念碑という解釈もできるのではないだろうか。

*1:いくつかは皮肉の可能性もあるし、そう判断したコメントは引用しなかった。「タブーじゃなくて嫌われてるだけ」のような、嫌悪されていること自体は認めているコメントも、現状認識としては特に誤りとは思わないので、やはり引用していない。