法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』は、悪い意味で退化したマクロスだった

 偶然の助けもあって珍しく公開初日に観賞することができたが、まさか映画としてまともに成立していない代物だとは思わなかった。


 今井一暁が長編アニメ映画を監督するのは今作で3回目なのに、どんどん物語のスケールがちいさくなり、ドラマの連続性が失われている。オリジナルストーリーなので娯楽色を強めるには自由度が高いはずなのに。
 脚本は内海照子だが、今井一暁が脚本の原案をつとめ、佐藤大が協力。若手監督の作りたい物語を経験者が補佐したようなクレジットだが、完成形を見るとシナリオ政策の段階でトラブルが発生していたのではないかとかんぐりたくなる。


 全体的な問題として、さまざまな人物や事件にスポットライトがあたっては、すぐに回答がしめされてドラマが深まらない。印象づけられていない人物や事件のすごさを表現するため、そのたびに長々と台詞で説明する。せっかく歌詞にたよらない音楽をテーマにした物語なのに。
 ゲストキャラクターの少女ミッカは日本語を解さず、そのコミュニケーションの障壁を音楽がとりはらう定番を描こうとしているが、その少女につかえるロボットは当初から饒舌に日本語で話すので効果をあげない。
 ひどいのがゲストキャラクターの歌姫ニーナ。ライブ開催などが序盤に少し言及されたり、街頭の広告に映っているくらいで、終盤の再登場までに世界的な歌姫と実感させる描写が存在しない。劇中でライブを描写して登場人物や観客を圧倒してほしいところだし、たとえば宇宙の問題を解決してライブ開催に間にあうことを登場人物の目標に設定して印象づけてもいい。
 そうして散発的な課題が提示されては即座に解決するか先送りされて、ちいさな起伏が単調につづく物語が終盤までつづく。最終的な目的がわからず、切迫感もない状態で、ただ登場人物が音楽を楽しむアニメーションを見せられても飽きてしまう。
 一応、SFとして時間移動のギミックにつじつまはあっているし、それを成立させるための秘密道具は真相を開示するまでに配置をすませている。しかし、その時間移動を必要とする状況そのものに作為が感じられて、納得や感動がない。スケールが小さすぎるオチは、原作者も短編でなら時々やるが、大長編では避ける印象がある。


 念のため、連続性のあるストーリー要素も少しはある。音楽を苦手とする宇宙的な怪物「ノイズ」は序盤から物語のはしばしで描写され、その襲来を主人公が意図せず招き、地球規模で抵抗するクライマックスにいたる。
 しかしノイズを主人公たちが認識するのは物語がかなり進んでからで、そこまでの異星「ムシーカ」から来た少女ミッカとのドラマとかかわらない。ムシーカを滅ぼしたのがノイズという設定を後半まで説明しない意味がわからない。
 そうして音楽というメインテーマは、怪物を倒す武器でしかないと位置づけられてしまった。この映画において音楽は誰かを楽しませるからすごいのではなく、敵を追いはらう架空の能力があるからすごいのだ。


 近年、アイドルやバンド演奏をテーマにしたアニメが多数あり、興行的にも批評的にも水準があがっている。くらべてこの作品は、さすがシンエイ動画らしいアニメーションで演奏の動きと音楽の同調を楽しませてくれたが、音楽が武器でしかなくなったため、それをめぐるドラマが成立しない。
 とりあえず演奏は楽しいものと描きたいのかと思えば、主人公のび太は下手なリコーダーを最初から最後まで笑われてばかり。もちろんジャイアンの凶悪な歌も拒絶されて音楽あつかいされない。まず自分で楽しむものか、それとも他者を楽しませるものか、音楽の位置づけは物語の最後まではっきりしない。
 のび太がノイズを排除するため下手な演奏をつづける場面もあるが、下手な演奏がノイズを排除できない以上は逆効果なだけ。そこで他の演奏の足をひっぱる可能性があっても演奏をつづけたいというのび太の心情は描かれていない。
 やがてのび太の演奏は一種の個性として肯定されたが、下手な音楽はノイズに打撃をあたえられない描写との齟齬が生まれている。設定の整合性も感じられない。
 たとえば同じシンエイ動画制作のアニメ映画『窓ぎわのトットちゃん』*1では、音楽は役に立たない無駄なものであり、合わせることが難しいがゆえに個性を浮かびあがらせるものでもあった。
 動画や仕上げで参加している京都アニメーションは、さまざまな音楽テーマの作品で人気をあつめている。たとえば『けいおん!』の音楽は学業とは異なる可能性をしめすものでありコミュニケーションのツールだったし、『響け!ユーフォニアム』の音楽は個々人が分割された部品として自身を磨きあげて個性を殺して完成させるものだった。
 他にもさまざまな音楽アニメがあり*2、必ずしも好みにあうものばかりではないが、テーゼがしっかり提示されればアンチテーゼも対比的に印象深くなる。その葛藤がこの映画にはない。


 音楽を道具として宇宙生物と戦う前例として、『超時空要塞マクロス』にはじまる人気シリーズがある。最初は文化を知らない宇宙人の精神を混乱させた隙に攻撃するために音楽がつかわれ、やがて異星人や宇宙生物と融和する道具へと音楽の位置づけを変えていった。これはシリーズの中心的なスタッフ河森正治の反省にもとづく変化だという。

 一方、歌で超常的な能力をえて敵と戦う『戦姫絶唱シンフォギア』という人気シリーズもある。敵生物の名称は同じく「ノイズ」。こちらは歌を完全に武器に位置づけて、音楽をめぐるドラマなどは無きにひとしいが、歌いながら踊るようにアクションする個性あふれるアニメとして楽しさはあった。

 音楽そのものの魅力をストーリーのなかで表現しようとするのか、あくまで音楽を道具あつかいにしてアニメとしての魅力を優先したいのか、『のび太の地球交響楽』はどっちつかずでどちらの魅力も感じづらいまま終わった。
 演奏すること自体の楽しさを描きたいなら敵を出して倒すべきではなかったし、敵との戦いを娯楽的に表現したいなら序盤から主人公たちに目標として認識させるべきだった。