あまりにもくくりがおおざっぱすぎて、被害を受けた当事者だけでなく、「オタク」に対しても失礼すぎる。
なんでBLが話題なのかと思えば。もう散々指摘されているけど、問題は「大学教師がエロを書いていたこと」でも「フェミニストがBLを書いていたこと」でもなく、「あんだけ他人の性的嗜好を攻撃していたらそりゃ逆襲もされるでしょう」的な想像力に欠けていたことだと思います。
— 東浩紀@巻頭言集2巻本、文フリで発売 (@hazuma) 2024年11月25日
なんでBLが話題なのかと思えば。もう散々指摘されているけど、問題は「大学教師がエロを書いていたこと」でも「フェミニストがBLを書いていたこと」でもなく、「あんだけ他人の性的嗜好を攻撃していたらそりゃ逆襲もされるでしょう」的な想像力に欠けていたことだと思います。
RTが増えたのでフェミニストもいろいろだとかBL研究の最前線を知らないとか反論が寄せられているけど、ぼくが指摘したのは、「日本のフェミニストはオタクを叩きすぎてきたのでそりゃ逆襲にあうよな」というだけの話であって、それ以上の難しい話ではありません。該当研究者さんは気の毒でしたね。
— 東浩紀@巻頭言集2巻本、文フリで発売 (@hazuma) 2024年11月26日
RTが増えたのでフェミニストもいろいろだとかBL研究の最前線を知らないとか反論が寄せられているけど、ぼくが指摘したのは、「日本のフェミニストはオタクを叩きすぎてきたのでそりゃ逆襲にあうよな」というだけの話であって、それ以上の難しい話ではありません。該当研究者さんは気の毒でしたね。
そもそも創作アカウントを閉鎖に追いこんだ発端からして、暇な空白氏の一方的な思いこみによる敵視と思われている。
それに東氏が「オタク」と「フェミニスト」を排他のように表記していることもよくわからない。いわゆる「萌えオタ」は「オタク」の一部にすぎないし、「萌えオタ」にかぎってもフェミニストと同じく一枚岩ではあるまい。
たとえば下記の講演レポートを読めば、当該研究者はフェミニストでこそなくても、「萌えオタ」に女性がふくまれていることを指摘していたようだ。
「ポルノ規制派フェミニスト─対─表現の自由派」の二分法を越えて─2022年日本女性学会大会シンポジウム「ジェンダー化さ れた表象とフェミニズム」の感想(高橋 幸) - ポストフェミニズムに関するブログ
「萌え絵はすべてポルノ」であり「萌え絵を愛好しているのは男オタクだ」という思い込みが「ポルノ規制派フェミニスト─対─表現の自由派」とい
う二分法を根底で支えていると道破し、女性たちによる萌え絵の制作および享受という実践を不可視化する点で問題があることを指摘した。
糾弾の理由にされている新聞インタビューも、広告は不特定多数が見ることを想定するべきという一般論を語り、無用な「炎上」をさけるための指摘にとどめている。
この記事を引用して「田中東子は宇崎ちゃんを燃やした」と主張している人が多いけど、本当に記事を読んでいたらそうはならんやろという内容なんですよね
— パントリー・ビオツリー (@biosurin) 2024年11月26日
ポストのみを読んで画像内の文章を読んでいないか、記事を読んでもどこからどこまでが田中氏の主張か理解できないという問題があるのかもしれない https://t.co/wmVSSBFGb1 pic.twitter.com/w3tX9Fgefp
この記事を引用して「田中東子は宇崎ちゃんを燃やした」と主張している人が多いけど、本当に記事を読んでいたらそうはならんやろという内容なんですよね
ポストのみを読んで画像内の文章を読んでいないか、記事を読んでもどこからどこまでが田中氏の主張か理解できないという問題があるのかもしれない
受動的に見せられる広告と能動的に見る小説は同列ではない。同列にあつかうべきという考えはありえるとしても、同列にあつかわない考えを二重基準と批判することは難しい。
広告は原理的に興味関心のない相手に向けているがゆえ、意図しない反発をひきだしてしまうことは「フェミニスト」に関係なくよくある。たとえば「オタク」に位置づけられるだろうアニメ愛好家が好まない映画の広告をとりさげさせた事例がある。
「見たくない表現に触れない権利」は存在しないとしても、「見たくない表現に触れない要望」を出す権利はあるだろうし、それを行使してきたのは「フェミニスト」だけではない - 法華狼の日記
広告が公共的な性格をもてばいっそう多くの批判にこたえなければならない。特に漫画の表現の自由を守ることを期待されていたはずの政治家が、漫画をつかったポスターへの批判に同調し、最終的にとりさげさせた事例もあった。
社会全体で性暴力の問題を共有しようという啓発ポスターについて、与党議員がとりさげさせようとする理由がよくわからなかったが、某大学教授の批判で少し見当がついた - 法華狼の日記
もちろん広告への批判や対応の妥当性は個別に論じるべきだし、罪のない創作を読者の基準で批判することも自由ではある。しかし公共広告への「批判」を表現の自由の問題あつかいしたいなら、それ以上に創作表現への「批判」も問題視するべきではないだろうか。