法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

一般論王に俺はなる!

はてなハイクはあまり見ないので、意味がとらえきれていないかもしれないが、何となく思うところはある。
http://h.hatena.ne.jp/T-3don/9234094781650653844

微妙な話題に分け入って発言しているのに、言葉数が絶対的に多いから、人を徒に刺激する。どれかの言葉が人に引っかかる。
で、反発されて本心を釈明し、そこでも言葉が多いから尚更反発される。自分だって消耗する。
言葉は、それ自体人を傷つける。意図もなにも関係ない。

言葉が多いことは問題だ。誤解を招きやすいし、会話が枝葉にそれていく。その枝葉こそが後からふりかえって重要だと思うことも多々あるが、本当に重要な話ならば枝葉という形で提示するべきではないという考えもできるだろう。
しかし少なければ誤解されにくいのか、というと最近twitterの発言を批判することが多い立場として、そうとも思えない。

だから先ずは、覚悟を決める。人を傷つけても良い、場合によっては殺してもいい、と言う覚悟を。
その上で、出来る限り人を傷つけないように書く。
言葉は絞る。最低限の校正を入れる。出来るだけ決めつけない。批判する時には根拠を付ける。根拠が否定されたら訂正する。まあ、十全に出来てるとはとても言えないけれど。

しかし、たとえば発言群を批判する時に明確な根拠を出せば、個人が特定されてしまうことが多い。一人の意見では根拠として不充分だという場合、複数の意見を引いてこざるをえなくなる。多くの人を刺激し、反発を生みやすい。
かといって個人を特定しないように気を配ると、具体性のない一般論になってしまう。それでいいと思うこともあるが、そればかりでは根拠薄弱な私見の域を出られない。


ごく一部にだけ伝わる言葉を用いるなら、しょせん作画オタクはロトとカリスマのてのひらで踊っているだけ、という問題でもある。
過去に用意された根拠や基準で語らなければ、言葉が届かない。過去の根拠や基準を無視して独自基準を作れば、肯定否定は別として独自基準を用いて語る他者が生まれるまで、しょせん個人の私見でしかない。
つまり普遍性と固有性の葛藤だ。ちょうど今それに私はつきあたっている。