法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

幼稚な無敵論法

どこから来た「算数」 - 法華狼の日記に対して、大屋雄裕教授*1が反応していたのだが……

なるほど、きちんと回答されていないのでは、私が納得できなかったのは当然だ。それに、これまでの大屋教授の私に対する反発や、「うんざり」といった嘆息も*2、つまるところ大屋教授自身に責任があったわけで、私が配慮する必要はなかった。
なお、不誠実な相手にまで誠実である必要はない、という思想が必ずしも間違いとはいわない。今回に問題なのは、大屋教授が相手を不誠実と認定した後、第三者の検証すらも拒絶していることがある。エントリを見ればわかるはずだが、私は私に対して回答がなかったためではなく、第三者に問われて回答を拒絶していたところから「納得できる人はいるのだろうか」と書いたのだ。
大屋教授の発言に妥当性があると思っていた人々にも困った話だろう。過去の主張を無価値なものだったと表明することは、第三者に対しても失礼で無責任だ。根拠も出さずに反駁だけするくらいなら、口を閉ざせばよい。その場合、もちろん批判は継続するが、回答しないこと自体を批判はしない。


そして、大屋教授が私を陰謀論者と評するエントリで書いたことが、大屋教授自身へ返っていくわけである。
リアリズムと陰謀論(2) - おおやにき*3

「もはや人間の言葉が通じない」と言われてもなるほど法華狼氏と愉快な仲間たちが「人間の言葉」だと思っているものは私には通じないだろうと思う。なんか似たようなことを以前にも書いた気がするのだが、「まああとは皆さんで楽しくやってください」と、そういうことになろう。

根拠も出さず没論理な反駁だけを続けることこそ、まさに仲間内へのアピールでしかないではないか。そう思って読み返すと、大屋教授の文章は自身の心情を相手へ投影しているだけに感じる。
ちなみに、冒頭の大屋教授のツイートをリツイートしていた[twitter:@sionsuzukaze]氏は、「ばっさりやな」*4という一言ツイートで態度だけを評していた。大屋教授の言説に妥当性を求めなければ、態度だけを評価できるのかもしれない。それとも「ばっさり」はハラキリ的な何かか。


しかしなぜか、きちんとした回答はしないと宣言したツイートの直後、私のエントリを下記ツイートのように論評している。
そのような態度で出した論評に説得力があると思っているのか。それとも、そのような態度でも説得力を感じてくれるような人々にだけ向けているのか。

「大虐殺を引き起こしたクメール・ルージュ政権」という文章を引用したエントリに対して「斬新な擁護」と解釈する不思議。「民主カンプチアヘン・サムリン政権に連続性があると思ってる」という解釈がどこから来たのかも不思議。過去の政権の虐殺によって人的資源が失われ、法制度がうまく運用できない状況にあるという場合、過去のクメール・ルージュ政権に責任があると批判しているよう解釈するのが普通だろうと思うのだが。
そもそも大屋教授は発端のツイートで、「戦前」が「根拠法とシステムの双方が腐っていました」といい、「クメール・ルージュ政権」が「麗々しい根拠法の下でシステムが腐っている」と、さまざまな事態を比較していた*5。一方の事態が比較的に当てはまらないという主張が擁護に繋がらないのは自明ではないか。私はエントリで「特に根拠法が賞賛されていたようなわけでもないポル・ポト政権よりは、ずっと事例として適切だったと思うのだが」とも明記した。
それともこれも、きちんと論評しないことで、リンク先を読まない人々に「ばっさりやな」と態度評価だけしてもらえることを期待しているのだろうか。