釣り針をぺたぺた貼り付けた風船を思い浮かべてしまう。近寄れば簡単に引っかかってくるが、すぐに割れてしまいそうな危うさ。釣り針がつく前、ぷかぷか浮いていた風船を愛でていた者は近づかなくなって久しい、と。
よなかのとり とあるらき☆すた好きな者の悩み
原作ファンがアニメ化による視聴層の拡大を嫌うのは、人口に膾炙したことによる消費や風化を恐れているからとよくいわれる。*1。また、作者に対価が支払われているとしても使い捨てのような状態で、出版社や広告代理店に搾取されている恐れすら感じているとも考えられる。
もっとも、別の考え方もできる。
消費や風化とは具体的に何だろうか、と考えてみる。要するに衆目にさらされ、称賛だけでなく批判も受ける状態になるということではないだろうか。かつて無名だったということは、批判にさらされていないこと、そして作品に欠点があった可能性を示している*2。
もしも、自分の内面と同一化までしたような作品が急に有名となって、批判をあびたりすれば、大事なモノが汚されたような気分にならないだろうか。たとえるなら、大事に集めたビンのフタが、汚いゴミとして捨てられた子供のように。
作品が耳目にさらされたところで、望み通りの方向へ作品が描き続けられるとは限らない。作品が大いに売れたところで、自分の利益になるわけではない*3。
何より、称賛は作者のものであっても*4、批判は見る目がないという形で読者にも向けられる。批判者が意図していなくても、そう思ってしまうファンもいる。
欠点がないと心から思っている作品なら、批判にさらされても批判者に目がないと切って捨てられる。しかし欠点を薄々感じつつ認めたくない状態で、作品が批判にさらされるのは、かなりつらいことではないだろうか。王様を裸と指摘しないのは、王様が好きだからかもしれないのだ。それはそれでかまわない、とも思う。
特に『らき☆すた』が好きではない者だからこそ、第三者的に原作ファンの内面を色々想像。失礼した。
『ドラえもん』の原作には欠点が皆無だから、私がおぼえることはまずない悩みだが*5。