法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『かぐや姫の物語』

高畑勲監督と宮崎駿監督は、組んで仕事をしていた昔から、娯楽として英雄や聖女や自然を美しく描きつつ、どこか距離をとって映してきた。
宮崎駿監督は作品内では自己批判を抑えて娯楽にふみとどまり、作品外で現実と距離があることを語る。『となりのトトロ』を子供に何度も見せているという親を批判したり、『もののけ姫』の結末からは自然が回復しないことを明言する。
高畑勲監督は作品内で崇拝されるものが美化されていることを示し、すでに失われていることを明かす。『おもひでぽろぽろ』では農業や田舎の暗部を示唆しているし、『平成狸合戦ぽんぽこ』では超常能力を使っても自然が奪われて終わる。
かぐや姫の物語』も、自然賛歌の物語ではあるかもしれないが、物語をとおして自然賛歌することは懐疑している。都の庭に再現された田舎は、物語をとおして夢見る田舎の似姿だ。


映像作品として見た時、描線の味わいを残す方針は、情報を落とすことはないが、しかし濃くすることもない。
人の手で描かれた絵であることを主張し、色数は一般のアニメよりも少なく、背景も描きこんでいない。
当時の文化や生活を調べあげながら、あくまで虚構として観客に提示している。


物語作品として見た時、劇中で価値があるとされたものは、その多くが偽りだ。
主人公と家族の身分は、竹林の金で買っただけ。男達が探してきた宝物や誠意は、原作と同じく贋物で虚言だ。都の庭に再現した田舎の風景も、すぐ壊せるつくりもの。翁や御門が与えようとする愛情は、想像上の主人公に対して向けられる。捨丸とともに逃げ出す夢まで、幻にすぎない。
かろうじて喜べる子供時代の経験は、翁の善意によって失われた。憧れの兄貴分だった捨丸は、都で再会した時は盗人となり*1、ともに逃げようとする時は所帯をもっていた。喜びの実体が失われた後に残る記憶すら、最後には消え去ってしまう。
何より作品の根幹にすえられた主人公の「罪と罰」がそうだ。遠い月から現世に憧れたことが罪であり、実際に現世で生きて失望することが罰であった。田舎に憧れる都会の人間の姿そのものだ。


むろん、現代人は文明でしか生きられないという話ではない。
美しい田舎や自然を幻想とみなしているが、他人の幸福を決めつける社会の誤りを強く批判している。主人公を抑圧する平安時代の価値観は、現代の社会にそのまま見られるものばかり。望まぬ道を与えられる苦痛、他人に品定めをされる苦痛、どちらも社会的な弱者が受けがちな被害で、社会的な強者が意識せずおこなう加害だ。
虚構に逃げることも、現実に負けることも、この物語は許さない。それに気づいた観客が楽しみにくいことは、娯楽として欠点であるかもしれないが、誠実ではあると思う。


なお、はっきり批判されないまま終わった人物もいくらかいる。
わかりやすいところで媼や女童がいるし、大伴大納言が龍を探した時の船頭や、炭焼きの老人のような職人もそうだ。その特徴として、誰もが自分の生活をしながら、他人の心に土足でふみこまない。助けはするが、それが唯一の救いだとはいわない。
主人公のためだという翁の行動は裏目に出つづけるが、変わらぬ生活をするだけの媼の行動は主人公に一瞬のやすらぎをもたらす。言葉にすると単純だが、たいせつなことには違いない。

*1:田舎の子供時代にウリを盗むことを助けた描写が、嫌な伏線として機能する。