法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『相棒 Season17』第18話 漂流少年~月本幸子の覚悟

不法投棄場で廃品回収しようとしていたリサイクル業の老人と孫が、衣装ケースのなかから死体を発見。通報するには後ろ暗いところがあるふたりは、親切な人物を巻きこんで疑われないようにしようと策をねる。そして死体の再発見のために目をつけられたのが月本幸子だったが……


太田愛脚本。密度の濃い展開でありながら真相につながるような動きが見えないことに首をかしげていたら、前後編の前編として終わった。
とりあえず消えた死体は偽装首吊り自殺として発見されたが、どのように誰がなぜ死体を動かしたのか、そもそも事件全体の構図は何か、まだはっきりしない。
しかし老人と同居する第三の少年の立場が、捜査が進むにつれて二転三転していき、登場時よりも混迷した位置づけになっていく展開はおもしろい。完全な解決を後編にまわしたおかげで、謎解きをつづけながらも普通の刑事ドラマでアンチミステリ的な展開が楽しめる。
リサイクル業の老人と青少年ふたりのキャラクターも立っていて、死体の発見から消失までもコメディチック。重い社会派テーマを予感させながらもコージーミステリのとぼけた味わいがあり、娯楽作品としての良さがあった。

対魔忍ガンディー

非常に興味深い博論の紹介を見かけた。マハトマ・ガンディーの思想の変遷を性的に求めた、とても真面目な博士論文らしい。



紹介されている一橋大学の博論要旨を見たが、私には正確な理解が難しいということがわかった。
一橋大学大学院社会学研究科・社会学部
とはいえ登場するワードを興味本位でながめるだけで楽しく、インドをモチーフにした無責任な伝奇小説の元ネタに使えそうだとも思った。


そして紹介しているDeutschRussisch氏の指摘のとおり、まるで性的欲望の表面的否定でキャラクターを形成するポルノ作品のような印象をおぼえる。


この部分を読んだ時から、エントリタイトルにしたワードが頭にこびりついて離れない。


なお、論文要旨によると、ガンディーの思想は性欲の抑圧でとどまったものではなく、5章以降でまた違う段階へと変遷していくことが語られている。
しかも終章によると、むしろガンディーの性的な思想背景は「間違った迷信化」*1と位置づけられるくらい、すでに知られていることらしい。むしろこの博士論文の眼目は、その「間違った迷信化」こそがガンディーの実践の基礎だったという論証にあるようだ。

換言すれば、この精液に対する「間違った迷信化」無しに、ヒンサーとアヒンサー、女性と男性、ジャイナ教とタントラ思想、若さと老い、同性愛と異性愛、自負と無力さ、宗教と世俗、そして、存在と非存在というあらゆる認識的境界線を絶え間なく再構成しようとするガーンディーの宗教政治の「様々な実験」はいかなる意味でも起こり得なかったのである。

*1:このワードには既視感があるので、あるいはずっと以前に似たような話題を見かけたことがあるのかもしれないが、少なくとも今回の博士論文の紹介ツイートを見るまで完全に忘れていた。

三一独立運動の犠牲者数を辞書的に表現すれば日本政府は満足したのだろうか

韓国大統領の文在寅氏が独立記念式典の演説で言及した犠牲者数に、日本政府が懸念をつたえたという。
日本、文大統領演説に懸念伝達 朝鮮人殺害者数「確立された数字でない」 - 毎日新聞

「約7500人の朝鮮人が殺害された」などと演説したのに対し、外交ルートで「学術的に確立された数字ではない」と韓国側に懸念を伝えた。

殺害者数のほか「約1万6000人が負傷、約4万6000人が逮捕・拘禁された」などと述べた。日本政府は「歴史家の間でも認識は分かれている」との立場で、外務省幹部は1日の自民党の外交関連会議で「問題意識を伝えた」と説明。だが、出席議員からは「明確に反論しなければ国際的に誤解を生む」「問題意識を伝えるだけでは生ぬるい」などと批判が上がった。

そもそも当時に弾圧した加害側が、わかれた認識のひとつから被害側が出した数字に対して反発するのは二重の加害だろう。支配側として資料をきちんと残して調査したわけでもなく、学術的に確立された数字が存在しないならば、それは加害側の新たな問題だ。
同時代の日本側に「朝鮮騒擾事件道別統計表」といった資料はあるが、一面の参考にはなっても確立した数字としての信頼はおけない。357人という死者数は虐殺事件の累積に比べて、あまりにも少なすぎる。
たとえば複数あった虐殺事件*1のひとつ堤岩里事件は、日本軍が放火虐殺したことを隠すため暴徒が抵抗したかのように歪曲した、という将校の日記が2007年に報じられている。
宇都宮太郎大将日記、発見 - Apeman’s diary


ここで日本側の一般的な見解として、日本の辞書から犠牲者数を引いてみよう。
たとえば小学館の『日本大百科全書』では、問題視された演説と近い死者数を一説としてあげている。
三一独立運動(サンイチドクリツウンドウ)とは - コトバンク

朝鮮人の被害は、一説では死者7645人、被傷者4万5562人、被囚者4万9811人、焼却家屋724戸といわれている。

平凡社の『百科事典マイペディア』では総数を出さず、個別事件の推計数に言及している。それでも堤岩里事件だけで「朝鮮騒擾事件道別統計表」の死者数を大きく超えている。

水原の堤岩里事件(4月15日29名虐殺,近辺の死者は1000名を越したといわれる),天安事件(4月1日並川市場でデモ隊20名射殺,朝鮮のジャンヌ・ダルクといわれた柳寛順が逮捕され獄死),定州事件(3月8日デモ隊,市民120名余を無差別殺戮)が引き起こされた。

朝日新聞のキーワードでも、当時に朝鮮側が集めた統計を採用した書籍から犠牲者数を引いている。負傷者数を見ると、これが演説で採用された数字だろう。
3・1独立運動とは - コトバンク

一連の運動をめぐり死者7509人、負傷者1万5961人のほか、4万6948人が投獄された(朴殷植著「朝鮮独立運動の血史」)。


コトバンクで確認できる日本の辞書で、当時の日本側が出した「朝鮮騒擾事件道別統計表」の数字を採用した例は見当たらなかった。
それどころか日本以外に目を向けると、ブリタニカ国際大百科事典で、死者と負傷者をあわせた数字として、問題視された演説よりも多い数字をあげている。
三・一運動(さん・いちうんどう)とは - コトバンク

日本側官憲は発砲して,約5万 2000人を殺傷,4万 6900人余を検挙したといわれる。

被害側が出す数字は、推計されている最大値とは限らない。たとえば南京事件の死者数として現在の中国があつかっている30万人より、産経新聞などが大きな推計数を報じたことがあることは一部で知られている。
犠牲者数の推移 - 誰かの妄想・はてなブログ版
もし文在寅氏の演説において、国際的な認識としてブリタニカの記述に言及されたならば、より客観的な数字として日本政府は歓迎しただろうか。

『スター☆トゥインクルプリキュア』第5話 ヒミツの変身☆お嬢さまはキュアセレーネ!

主人公の先輩である香久矢まどかは、文武両道の令嬢にして、「観星中の月」とたたえられる生徒会長。そんな香久矢が先日に見かけたフワに不審をいだき、星奈たちに接近してくる。実は香久矢の父親は政府の仕事として異星人の調査をおこなっているのだ……


村山功シリーズ構成の5連続脚本で、まず序盤のプリキュア4人が出そろった。
まず、公的機関が序盤から存在感を出してくるところがシリーズで初めて。それでいてプリキュアをリアルな存在として描こうとするのではなく、メンインブラック陰謀論的なオカルト世界観をつくりだしている。こういう作品全体のスピリチュアルっぽさは好ましく思えないのだが、オルタナティブを描く手段として採用した意図は理解したいとも思えて、悩ましい。
それはともかく、そんな公的機関をプリキュアの父親がひきいている設定からのストーリー展開はよくできていた。少女がはじめて父に対して秘密をもつという一種の自立のドラマを完結させつつ、いつか真実を語るためにプリキュアとして活動したいという結末を見すえた目標へむすびつけた。
そこで目を引いたのが冒頭の弓道だ。矢を的中させたばかりの香久矢の背後から、父親が賞賛の声をかける。まだ残心を終える前から声をかけることで、父が娘の成績のみ注目するような人物とわかる。一方で娘は父の言葉に反応せず残心をつづけることで、父娘の一方的かつ不全なコミュニケーション状態が映像を見ているだけで実感できる。


コンテは志水淳児。初期劇場版の監督を担当したりしたベテランだが、演出が良かったと感じたのは初めてだ。あまり奇をてらわないカットを積み重ねるタイプの演出家なのだが、それがわかりやすさを優先して絵作りしている今作にあっているのかもしれない。
先述の弓道場面は、ひとつひとつの所作をていねいに再現して、芝居としての面白味を出しつつ、台詞がない時間の長さを強調していた。香久矢を正面からクローズアップするカットが多く、主人公をふくめた他のキャラクターは遠近法で小さく作画され*1て背後から語りかける場面が目立つところも面白い。香久矢が今回の事実上の主人公であることと、そんな香久矢に正面から向きあう人間がほとんどいないことが、よく映像だけで表現されていた。
作画監督に爲我井克美が入ったこともあり、過去の登板に比べてきらびやかさは抑えているものの、画面がよく整っていた。アクション作画も中抜きした枚数少なめの動きが、キビキビと決まっていて心地よい。


あと、意外と良かったのが初めての3人同時変身。
前回は良さを感じなかったキュアソレイユだが、画面いっぱい使ったシンプルな動きが、分割された小さな画面で見映えする。玉状の液体に手足をつっこむカットが使われていないので、画面の動きを止めてテンポも悪くしていた問題が解消された。
逆にアニメーターに優遇されているキュアミルキーが、小さな画面だと細かな動きが見えづらくて、結果として他2人とのバランスがとれている。
変化がなくて残念だった歌詞も、3人の合唱になると雰囲気が華やいで、また違う印象が生まれた。

*1:つまり広角のレイアウトなので、香久矢と背後のピントは異なるように表現するべきだったとは思う。望遠でもないのに全体にピントがあうような映像は、いかにも安っぽい絵に見えてしまう。冒頭の弓道でクローズアップした場面では、ちゃんと被写界深度が浅く撮影されていて、目を引いたのだが。

『ドラえもん クレヨンしんちゃん 春だ!映画だ!3時間アニメ祭り』風間くんと入れ替わっちゃったゾ/野原家の秘宝だゾ/「映画ドラえもん のび太の宝島」

2番組を合体させた恒例の3時間SP。


「風間くんと入れ替わっちゃったゾ」は、台詞からも『君の名は。*1の人気を受けたと思われる、しんのすけと風間くんの人格が入れかわる中編。とはいえ異性ですらなく、たがいを知っている関係であり、家族とも面識がまったくないわけではない。
どちらかといえば、幼いがゆえ入れかわった体を演じきることができず、変わった人格によって周囲がふりまわされるという、このジャンルでは少し珍しい方向性のドラマだった。肉体ではなく家族ごと立場だけを入れかえる『ドラえもん』の「ママをとりかえっこ」*2が印象としては近い。
「野原家の秘宝だゾ」は、秋田にいる祖父の家へ遊びにいった野原一家が、先祖が埋めたという宝探しにつきあわされる。これも『ドラえもん』に「のび左エ門の秘宝」*3という根幹が同じアイデアのエピソードがある。
もちろん展開は全く異なっていて、『ドラえもん』でのび太は宝の地図の真相を知っていて無駄な手間を嫌がっていたが、しんのすけは意外と素直に信じたままで真相に気づいている父を連れまわす。祖父なりに孫を喜ばせてやろうとする努力が素直に実ったハッピーエンドは悪くないし、父が隠していた別次元の宝が出てくるというオチも家族の風景として意外と楽しい。


映画ドラえもん のび太の宝島』は、再見すると改めて作画の良さが印象的だが、どうしても細部のつめきれなさが気になってしまう。
たとえば初見では感心もした「治外法権」だが、劇中でそうした歴史や科学の豆知識を明確には引いていないところが、再見すると居心地が悪くてしかたない。
『映画ドラえもん のび太の宝島』 - 法華狼の日記

基地内でレストランが「治外法権」な立場と説明されていることが、作品の世界観の説明となり、伏線として作用していることも興味深かった。
そのような立場を許す海賊社会が理想郷でもあるという雰囲気を生み出していたし、海賊社会そのものが治外法権ということも感じさせた。いわゆる「アジール」だ。

冒頭の出木杉からしてそうだ。のび太が宝を実際に探すと発言したなら、原作の出木杉なら馬鹿にしたり唖然としたりはすまい。現代にもトレジャーハンターがいることを指摘するだろう。
17世紀の沈没船から発見の「宝の山」、競売へ NY 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News

フィッシャー氏は、巨額の費用を投じて15年以上にわたる捜索を行い、1985年7月20日に沈没船の場所を特定。船内からは、硬貨や希少な宝石類などを含む、4億5000万ドル(約550億円)相当の宝の山が発見された。

そこから秘密道具で沈没船を探す展開にすれば、島などないはずの海原にあたりをつけた本編と自然につながるだろう。そこで発見された新たな島に過去の海賊が宝を埋めるはずがないという指摘もほしい。海底がもりあがることで沈没船が出てきたとか、火山の作りだす宝石や宝石に秘密道具が反応したとか、さまざまな推理に発展させることができたはずだ。その推理にまじえて火山のエネルギーなどの科学的な説明をすれば、伏線としても成立する。
そうした考証をして設定と物語に厚みを持たせるスタッフがいなかったのか、それともメインスタッフがSFを支える細部のディテールに関心が薄かったのか……そこで今回の放映にあわせて解説していたキャラクターデザインかつ総作画監督亀田祥倫ツイッターを除くと、物語の整合性を高めることよりキャラクターのイメージが優先されていたらしいことがわかる。

これに対して、海賊は何かを欠落しているので、髪色の異なるのに混同したキャラクターは「色盲」ではないかという考察がもたらされ、それを面白いと評価している。やはり工夫すれば整合性を高める余地があったのではないかと思わされる。