非常に興味深い博論の紹介を見かけた。マハトマ・ガンディーの思想の変遷を性的に求めた、とても真面目な博士論文らしい。
これTLで話題になってないが、書店で見て絶句。こんな興奮は久々だ。乱暴に言えば、インド独立の英雄ガンディーの非暴力・ナショナリズム運動として語られるサティヤーグラハの核心は、彼が生涯をかけたポコチンの統制とその挫折にあった。精液を出すこと、出すのに耐えること、受精させることの哲学。 https://t.co/6KS0L3b7ez
— 髑髏系歴史学徒 (@DeutschRussisch) March 5, 2019
著者の間氏は学振DC1の後、フルブライト奨学生という超絶エリート。しかも英語、ヒンディー語、グジャラーティー語の三つを駆使することで史料的制約を越え、このような「ヤバい」テーマで博論を書き切った(インド本国でガンディーの性がタブーなのは当然として)。これは買ってちゃんと読まねば!
— 髑髏系歴史学徒 (@DeutschRussisch) March 5, 2019
ちなみに著者の博論(一橋大学)の要旨は以下で読める。https://t.co/9D3pbVMsrS
— 髑髏系歴史学徒 (@DeutschRussisch) March 5, 2019
紹介されている一橋大学の博論要旨を見たが、私には正確な理解が難しいということがわかった。
一橋大学大学院社会学研究科・社会学部
とはいえ登場するワードを興味本位でながめるだけで楽しく、インドをモチーフにした無責任な伝奇小説の元ネタに使えそうだとも思った。
そして紹介しているDeutschRussisch氏の指摘のとおり、まるで性的欲望の表面的否定でキャラクターを形成するポルノ作品のような印象をおぼえる。
要旨結部だけでみんな読みたくなると思います!
— 髑髏系歴史学徒 (@DeutschRussisch) March 5, 2019
「精液はセクシュアリティという現象学的感情領域を左右する非物理的衝動であると同時に、可視化され得る生物学的客体でもある。つまり、精液という問題は両義的存在のレイヤーが幾層にも重なり合う認識論的交雑の「場」に他ならないのである…」
第4章要旨からの抜粋…エ◯同人やん
— 髑髏系歴史学徒 (@DeutschRussisch) March 5, 2019
ガーンディーは断固としてこのような抑圧的方法によって増加する自身の性欲が性欲であることを認めるようとしなかった。この精液=性欲に対する自己欺瞞的理解が、暴力が発生している現実を非暴力であると主張する逆説的な非暴力ナショナリズム思想…へと結実して…
この部分を読んだ時から、エントリタイトルにしたワードが頭にこびりついて離れない。
なお、論文要旨によると、ガンディーの思想は性欲の抑圧でとどまったものではなく、5章以降でまた違う段階へと変遷していくことが語られている。
しかも終章によると、むしろガンディーの性的な思想背景は「間違った迷信化」*1と位置づけられるくらい、すでに知られていることらしい。むしろこの博士論文の眼目は、その「間違った迷信化」こそがガンディーの実践の基礎だったという論証にあるようだ。
換言すれば、この精液に対する「間違った迷信化」無しに、ヒンサーとアヒンサー、女性と男性、ジャイナ教とタントラ思想、若さと老い、同性愛と異性愛、自負と無力さ、宗教と世俗、そして、存在と非存在というあらゆる認識的境界線を絶え間なく再構成しようとするガーンディーの宗教政治の「様々な実験」はいかなる意味でも起こり得なかったのである。
*1:このワードには既視感があるので、あるいはずっと以前に似たような話題を見かけたことがあるのかもしれないが、少なくとも今回の博士論文の紹介ツイートを見るまで完全に忘れていた。