法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『君の名は。』

山奥の神社で巫女の立場をつぎながら、普通に高校にもかよっている少女、宮水三葉
東京で高校にかよいながらオシャレなレストランでアルバイトをしている少年、立花瀧
いつのころからか、ふたりが眠りにつくと、不定期に体と心が入れかわるようになった。
たがいの立場を夢うつつに記憶しながら、ふたりは彗星が降る夜をむかえる……


2016年8月に公開された、新海誠監督によるオリジナルストーリーの最新作。小説『おれがあいつであいつがおれで』を思わせる古典的な設定を、距離のある男女をむすびつける展開へ応用した。
映画『君の名は。』公式サイト
大ヒットしていると聞くが、CMなどで一般向け露出を重ねてきた映像世界に、シンプルなラブコメディとディザスタームービーを重ねることで、うまく観客の心をつかんだということか。その恩恵にあずかり、たまたま格安で鑑賞することができた。
このジャンル作品らしく性的に肉体をたしかめるシーンも何度かあるが、直接的な性欲は少女になって胸をさわる場面が限界で、その「一度だけ」さわる場面もパターン化して物語を進める記号。少女の下着が見えてしまう場面も、男子が入れかわっていることの表現と感じられたので、そこはさほど気にならなかった。


さて映像全体は、予想を超えるほどではないものの、期待通りの充実ぶりではあった。キャラクターデザイン*1作画監督をつとめた安藤雅司をはじめ、スタッフにスタジオジブリのアニメーターが散見される。Production I.G沖浦啓之のようなスターアニメーターも目立つようにクレジット。
背景美術はいつもの新海誠作品らしく、濃厚に彩度を強調して、ハイライトや逆光で見ばえをよくする作風。商業アニメでは珍しく主張する背景を、前作『言の葉の庭*2ではキャラクターの描線や色彩を薄めることで、背景と人物の一体化をはかった。今作は一転してキャラクターの芝居をスタジオジブリらしく過剰に、描線も太く力強く、主張する背景に負けない人物を作りだしている。この過剰な映像は、間違いなくひとつの個性ではある。
ひとつ意外だったのは、意識的に精神を入れかえる場面で、パステル調の絵を滑らかなアニメーションで動かしていたこと。フレデリック・バック監督作品*3のようで、『つみきのいえ*4のようでもある。なおかつ描きこみが緻密で、いわゆる板野サーカスのように空間の広がりも表現されており、見ているだけで楽しかった。
一方で残念だったのは、クライマックスにあるカタストロフの作画が、直前の爆発に比べて凄みを感じなかったこと。よく動くカットを重ねていて悪くはないのだが、突出した場面ならトップクラスにスペシャルなアニメーターを呼んでほしかった。


次に物語全体だが、入れかわった当初のたたみかける毎日までは、コメディとして悪くなかった。しかし入れかわりの錯誤が明らかになったころから、つじつまの気になる場面が増えていく。
物語を進めるための必要悪でつじつまを捨てているのではなく、少しの説明を足すだけで整合性を守れたり、人物の言動が自然となるような場面ばかり。ゆえに、なぜ細部を煮詰めなかったのかという疑問ばかりがわく。
すでに致命的ではない問題として、彗星の軌道のおかしさが各所で指摘されていた。映画を見ると、彗星と入れかわりの関係が示唆されているし、彗星が予測を超えたことがクライマックスの要点になっている。ここは「内部からのガス放出で彗星の軌道が不規則」などと劇中ニュースでひとこと解説すれば、整合性をたもちつつ伏線へと昇華できただろう。
偶然にも、同じように入れかわりと彗星がポイントとなるオリジナルストーリーアニメとして、2015年に『Charlotte』というTVアニメがあった。コメディな発端が良くて、シリアスになるにつれてつじつまが崩れていったこともそっくり*5。比べると、『君の名は。』は人物に対する不快感は少ないが、やはり物語の都合で人物の行動が不自然に制限されている。


以下、いくらかネタバレをふくみつつ、引っかかった疑問点をならべていく。
なんといっても、展開を転回させる入れかわりの錯誤に、どちらの主人公も気づかないことが奇妙だ。どれほど遠くても同じ日本なのだから電話をかければいいのに、できるだけ電話しないというルールが少し映るだけですまされた。そもそも普通に生活していれば気づく錯誤のはずで、たがいに会話する必要すらない。
入れかわった時の記憶は薄まっていくという説明はあるが、ならば入れかわっている時に調べないという心理もわからない。いや、少年も少女も考える余裕や知恵がないことは見ていてわかるのだが、いくらなんでも入れかわりの回数が多すぎて不自然だ*6。記憶だけでなく記録まで薄れていく描写があるのだから、入れかわっている時は文字や数字が見えにくく聞こえづらいという描写をしても良かった。


錯誤が明らかになるのは、入れかわっていない時に調べはじめてから。先に動いた少女は、感情まかせなりに行動も結果も理解できるし、伏線による意外性は演出できていた。
しかし少女より多くの情報を集められる立場の少年を、少女と同じくらいに真相から遠ざけるため、異様に記憶力を弱くしてしまった。いくら子供には時間が大人より長く感じられるといっても、高校生なら限度があるだろう。ひとりの観客として少年の視点が信用できなくなり、作品世界がどれくらい現実と違うかの距離感もわかりにくくなった。
ここで少女の村に何が起きたかが明らかになるが、少女の存在まで消し去る必然性は、ありそうで実はない。ただ少女をふくめた村民がちりぢりになって、誰も行方を知らないと説明すれば物語は自然につながる。それでも少年と少女の断絶を強調するために、いったん殺してしまったのだろう。しかし物語の雲行きから復活することは簡単に予想できるので、いくら強調されても衝撃はない。
いっそ、少女の不思議な行動で村民が助かったという情報が見つかり、少年が自分のなすべきことを知るという展開にしても良かった。ひとつのSF類型としてつじつまがあうし、状況が小さければ少年が記憶していないことも納得しやすい。


少年が意識的に入れかわる展開に入ると、見せたい絵を優先したような不自然な行動が目につくようになる。
親切そうな男性が軽装の少年を天候の不穏な山道におろす描写は、雨に打たれながら獣道を登る描写をしたいためだろう。
「気持ち悪い」物を口にすること自体は後でツッコミが入るからいいとして、状況からして腐っているとしか思えないのに、それに対する反応がなさすぎる。どうせ儀式的なものだし、においをかぐだけで入れかわる展開にしてもいい*7
ただ、終盤まで来ると少年少女のラブストーリーと、カタストロフの回避という二極にストーリーがしぼられるので、ツッコミどころは無視して展開を追うことはできる。幻覚的な描写も増えてくる。たぶん監督も細部のつじつまに無理があることを自覚しているのだろう。カタストロフを回避する最後の判断は映画で描かれることはなく、すべては終わった後に示唆されるだけ。
そこまでつじつまを放棄するなら、細かい固有名詞や年号の表記が異なる並行世界の少年少女が入れかわっているという設定にしても良かった。そうすれば少年少女が出会えないかもしれないという結末の引きも強くなる。


あらためて全体をふりかえって、人間の出会いについての伏線はいろいろ入れていたが、やはり基盤の整合性が無視されつづけているのが気になった。
そこそこシンプルなハッピーエンドなので、娯楽作品として後味が悪すぎることはなかったが、物語のスケールを大きくしようとして全体に無理がきていた、というところ。
少年少女のラブストーリーも、かつてほどの湿度はないが、かといって納得できるほどではない。あいかわらず大人の女性の自立ぶりや、建設会社の御曹司という監督のプロフィール*8を思い起こさせる親子の葛藤などは、適度に興味深かったが。

*1:田中将賀と共同。

*2:『言の葉の庭』 - 法華狼の日記

*3:フレデリック・バックの映画(短編四作)公式サイト

*4:『つみきのいえ』 - 法華狼の日記

*5:『Charlotte』の底抜け倫理観に腰が抜けた - 法華狼の日記

*6:何度も入れかわることで周囲の人間関係が変わったことがドラマの見せどころなので、ここはバランスを調整するか、どちらかをあきらめるしかないことは理解する。

*7:たぶんトイレのような香りがすることだろう

*8:新海誠 監督 最新作のご紹介|NEWS&TOPICS|NIITSU 新津組:長野県軽井沢、八ヶ岳の別荘建築ならお任せください