法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『人造人間ハカイダー 劇場公開版/ディレクターズカット版』

 荒廃した近未来、トレジャーハンターがこじあけた遺跡のなかに謎の男がいた。男は黒い機械の姿に変身し、トレジャーハンターを倒していく。そして秩序をたもつ最後の都市ジーザスタウンにやってきた男は、機械技術をもちいた独裁的な秩序を破壊していく……


 石ノ森章太郎の漫画『人造人間キカイダー』を1972年に特撮ドラマ化した東映が、その人気悪役を主役にしたオリジナルストーリーで1995年に映画化。

 東映スーパーヒーローフェアで『仮面ライダーZO』『仮面ライダーJ』につづいて雨宮慶太が監督をつとめ、井上敏樹が特撮映画の初脚本をつとめた。メインヒロインのカオルを宝生舞が演じる。
 DVDには、フェアで併映するため約50分に短縮された劇場版と、削除されたカットを復活させて特殊撮影を追加してVHSビデオで発売された約80分のDC版、さらにメイキング等が収録。
 現在に配信されているのはDC版だけらしく、約十年前に配信でDC版を視聴してから、DVDを購入して劇場版を視聴した。


 まず、ミニチュアやモデルアニメーションを活用した特撮は楽しい。今となっては本家『仮面ライダー』でも少なくなったバイクアクションもたっぷりある。バイクチェイスは明らかに日本の道路や廃工場をつかっているが、一応は看板などが映らないように気をつけているし、夜間なので目をつぶれる。多様な人種のエキストラを登場させて、ジーザスタウンの市場に無国籍な雰囲気を出そうとする努力も良かった。
 冒頭の東映三角マークからシームレスに本編へ入る演出も、DC版にしか存在しないが、けっこう楽しい遊びだった。おそらく日本の映画では今でも珍しく、先進的な試みだと思う。
 しかし整列する重武装兵がゆらゆら揺れていたり、全体的に技術や予算の限界も見えてしまう。戦闘シーンも要所の破壊はバイク上のはずなのに動きを止めて撮影したり、人間がスーツに入っていないことがあからさまで、編集でごまかしきれていない。
 決着をつけるクライマックスも3DCG技術が当時で考えても低く、敵の異様さの表現として活用した『仮面ライダーZO』と比べて使いどころが良くない。


 何より、物語が感心できなかった。全体的に悪い意味で陳腐すぎる。
 メインのハカイダーのキャラクターすら判然としない。目覚めた時の「俺は……誰だ」という第一声からアイデンティティを確立するため支配をこばむキャラクターかと思えば、対立する敵を正面から否定する台詞を吐いていく。そこで敵を否定する台詞も唐突で、そこまでの寡黙ぶりとくらべた違和感もあって、作者の代弁に感じてしまう。たとえば敵の末端を問いつめた時、思考が中枢に支配されている答えが返ったりすれば、アイデンティティを求めるハカイダーが戦う動機を強めるだろうし、後半で敵中枢を破壊して重武装兵の大半を動作不能にした作戦の伏線にもなったろう。
 作中でも揶揄されるようなエクスキューズはされているものの、花嫁になりたいというカオルの願いも陳腐。後年に井上敏樹が脚本をつとめた映画『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』中盤の仮面舞踏会の気恥ずかしさを思い出す。

 戦闘の演出でも、中盤でハカイダーを倒したと判断しただろう重武装兵が去っていく時など、不自然な描写が細部にある。生き残りの反政府勢力を横目に隊列を組んで進んでいて、最後の兵士があっさり撃つまではいい。しかしカオルが呼び止めて全ての重武装兵が立ち止まり、ふりかえるのは直前の無機的な良さが消えてしまった。そこでカオルが「殺したんだ……殺したんだ……たったひとつの希望を」と叫ぶ台詞も陳腐で困惑するし、敵の末端部隊に対して叫んでも意味がないだろうとしか思えなかった。
 そうして呼び止めたカオルへ、部隊をひきいるミカエルが手をかざしながら、拘束しない理由もわからない。ミカエルは部下には戦って死ねと主張して自ら生き残りを殺すが、市民は犯罪者でも命を奪わないと明言する描写が先に存在するのに。
 敵に攻撃された後、カオルが自然のあふれる場所までハカイダーとふたりきりで行けた経緯もわからない。いや群衆のいる市場までヨロヨロ歩いてきて、戦わない周囲を糾弾する時点で元気すぎると思ってしまう。てっきりここは序盤の「夢」のような幻影を見ているのかと思いきや、途中で「夢」のつづきに切り換わったことから、作中現実の可能性が高い。


 しかし驚いたことに、上記の問題点の多くは劇場版では少ない。
 たとえば「整列する重武装兵がゆらゆら揺れ」る場面はカットされている。他もアクションシーン全般のカット割りが短いおかげか、全体的にどのように撮影したのかがばれていない。
 逆に反政府勢力の中盤の敗北は省略されていないようで、相対的にDC版より反撃しようと奮闘していると感じられた。カオル以外の反政府勢力は支配者になりかわろうとしているだけなことは変わらないが、DC版よりずっと印象深かった。
 ミカエルは、エキセントリックなだけで陳腐なキャラクター描写そのものが存在しない。わかりやすく倒すべき敵ではなく、あくまで治安部隊の延長で一般的なヒーローの役割りを演じていると感じさせる。つまり「部下には戦って死ねと主張して自ら生き残りを殺すが、市民は犯罪者でも命を奪わないと明言する描写」がない。くわえてカオルを見逃す描写はショートカットでごまかしている。無理に説明しようとするよりは矛盾がなくて許せた。
 カオルにしても重武装兵を呼び止めるのではなく、「殺したんだ……殺したんだ……たったひとつの希望を」という例の台詞をはいて敵が振り返る。小さな違いだが、直前に無視したような弱い敵の制止を全員が聞くような不自然な雰囲気がなく、ずっと良い。さらにカオルが二度目の夢を見る場面はなく、エンディングにまわされている。無理に本編に挿入すると陳腐な恋愛描写がつづくだけだし、あくまで観客サービスのイメージシーンに位置づけた劇場版が正しいとしか思えなかった。
 カオルが群衆を糾弾する描写ではストップモーション的な効果のおかげか、DC版より主観的な映像という雰囲気もあって、やはり相対的に不自然さがない。ラストバトルも強力な内蔵武器が伏線なく登場するDC版より、先に登場した内蔵武器を応用する劇場公開版のほうが納得感があり、好みだった。
 フィルム撮影のためかビデオ作品のDC版より画質が良いという予想外の長所もある。少なくともDVDで見比べると違いが素人目にも明らかで、上映版こそが完成品に見えてくる。
 ただ、ハカイダーアイデンティティがはっきりしない問題は劇場公開版でも変わらない。たとえば第一声の時点で「俺は……ハカイダー……破壊し、裁く者……」とでも宣言させたほうが、クライマックスの同様の台詞がリフレインとなり強調されただろう。DC版ですらキャラクターの変化を描く尺がないので、最初からハカイダーのキャラクターは固定したまま群像劇にしたほうが良かったと思う。