法華狼の日記

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判決がいうように「単なる慰安婦」か「挺身隊」かが当時の重要な争点だったら、金学順証言記事は違った内容になったのでは?

植村隆氏が櫻井よし子氏を名誉棄損でうったえた裁判で、札幌高裁は控訴を棄却した。
慰安婦報道訴訟、札幌高裁も棄却 元朝日記者の賠償請求:朝日新聞デジタル

櫻井氏は2014年に月刊誌「WiLL」4月号で「植村記者が真実を隠して捏造記事を報じた」と指摘。「週刊新潮」「週刊ダイヤモンド」誌への寄稿でも植村氏の記事を「捏造」と断定した。

争点となったのは、日本軍の被害者としてなのりでた金学順氏について、証言録音にもとづいて植村氏が報じた記事だ。
植村裁判を支える市民の会: 小野寺弁護士の寄稿

 思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く 【ソウル10日=植村隆日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され 、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表 、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。」(1991年8月11日朝日新聞大阪版社会面1面)

 これが「捏造」批判の対象となっている記事の一つである。その主な論拠は、勤労動員する「女子挺身隊」と無関係の従軍慰安婦とを意図的に混同させて日本が強制連行したかのような記事にしたというものである。


名誉棄損ではないのかという本題*1はさておき、原告支援者から批判的な注目をあつめたくだりが判決文にあった。
植村裁判を支える市民の会: 判決書に蔑視記述!

「挺身隊」という語を用いた植村氏の記事は「強制連行」と結びつけたものだ、との櫻井氏の主張を検討する部分の記述で、直前には「日本の戦争責任に関わる報道として価値が高い反面」とあります。
「単なる慰安婦」とは、なんなのでしょうか。

原告支援サイトに掲載された判決抄録から、該当する部分を引用する。
植村裁判を支える市民の会: 控訴審判決(抄録)

朝日新聞は,昭和57年以降,吉田を強制連行の指揮に当たった動員部長と紹介して朝鮮人女性を狩り出し,女子挺身隊の名で戦場に送り出したとの吉田の供述を繰り返し掲載していたし,他の報道機関も朝鮮人女性を女子挺身隊として強制的に徴用していたと報じていた。その一人がやっと具体的に名乗り出たというのであれば(それまでに具体的に確認できた者があったとは認められない[弁論の全趣旨]。),日本の戦争責任に関わる報道として価値が高い反面,単なる慰安婦が名乗り出たにすぎないというのであれば,報道価値が半減する。

説明文に挺身隊という記述さえなければ植村記事は注目されなかったのだろうか。金学順氏が吉田証言の裏づけとなる挺身隊という位置づけで同時代に注目された事実でもあるのだろうか。
慰安婦と挺身隊の制度が異なると学術的に明らかにされた後、さかのぼるように過去の記述が誤りとして注目され、批判されるようになったという順序が実際ではないだろうか*2


そもそも「挺身隊」という説明は、植村氏個人が責任を負うべき記述といえるだろうか。
この判決文だけでも、当時は他の報道機関も慰安婦と挺身隊を同一視していたことがうかがえる。2015年の朝日検証では同時代の専門的な辞書から引用した経緯も説明されていた。
https://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014080517.pdf
その辞書は1986年が初版だが、辞書が資料として引いた千田夏光従軍慰安婦』は1973年に出版されている。吉田証言が1982年以降に掲載されるより前のことだ。
植村記事を特別に吉田証言とむすびつける根拠が判決の抄訳からは読みとれない。事実として記事には吉田証言を引いた記述が存在しないだけでなく、「徴用」や「強制」といった単語すら存在しない。むしろ「だまされて慰安婦にされた」と記述し、あつめる手法がさまざまであったことを学術的に明らかにする端緒になったといえる。
たとえ話として、“太古の巨大爬虫類とされる恐竜に羽毛があった”と報じた新聞記事があったとしよう。それから恐竜は爬虫類ではなく鳥類という学説が主流になった。ここで羽毛記事を書いた記者に対して、恐竜が爬虫類という学説を捏造したなどと批判することは妥当だろうか。既存の誤った学説を説明部分で踏襲しただけと解釈するのが一般だろう。
先行研究を引用した範囲だけ記述が誤った記者個人は、その誤りの責任が多少はあるとしても、捏造と批判することに正当性があるとは思えない。


判決は前後して、「挺身隊」が慰安婦を指す場合と指さない場合があったと指摘している。

平成3年当時に「女子挺身隊」又は「挺身隊」の語は,慰安婦の意味で用いられる場合と,女子挺身勤労令の規定する女子挺身隊の意味で用いられる場合があったというべきであり,一義的に慰安婦の意味に用いられていたとは認められない。

しかし記事の妥当性を論じるならば、争点は慰安婦が「挺身隊」の一部と考えられていたか否かだろう。たとえ話をつづけると、恐竜を爬虫類と説明したことの妥当性と、爬虫類には恐竜以外の種類もあることとは関係がない。
挺身隊ではない「単なる慰安婦」と呼ぶべき概念が当時にあったことや、金学順氏がそれに該当しえないことを判決は説明しなければならないのではないか。
ちなみに判決を読み進めていくと、逆に「挺身隊」が「女子挺身勤労令の規定する女子挺身隊」を一義的にさすという指摘に対し、判断に関係ないとしりぞけている。

控訴人植村は,韓国では,「女子挺身隊」又は「挺身隊」の語は,慰安婦の意味で用いられることが一般であることや,日本国内でも慰安婦の意味で用いられていたことを理由に,本件記事Aが関係のない女子挺身隊と慰安婦とを結び付けるものではないと主張するが,上記判断を左右しない。

この判決によると、多義的な解釈をできる言葉をつかった時、すべての解釈において誤りのない記述をしないと、捏造と批判されてもしかたがないように感じてしまう。


何より、当時に慰安婦が「挺身隊」であったか否かが重要な争点であったなら、植村氏の記事は違った内容になったのではないかという疑問がある。
なぜなら、裁判をとおして記事*3のもととなった録音が発掘され、その証言で金学順氏が挺身隊と自認していたことがわかったからだ。
植村裁判を支える市民の会: 植村支援の皆さまへ

植村さんの記事のもとになった1991年11月の金学順さんの聞き取りテープを発見して、①取材時の金さんは「キーセン」という経歴には一度も触れなかった ②金学順さん自身が「私は挺身隊だった」「(日本軍に)引っ張って行かれた」「武力で私を奪われた」と語っていたことが、法廷で確認されました。

念のため、この録音が提出されたのは西岡力氏に対する名誉棄損裁判においてであり、櫻井氏の裁判とは場所も異なる。植村氏が櫻井氏をうったえた札幌高裁と、西岡氏をうったえた東京高裁は、どちらも名誉棄損が認められなかった。
しかし、当時の慰安婦と挺身隊の同一視をうかがう根拠にはなるだろう。もし、金学順氏が「単なる慰安婦」ではなく挺身隊と同一視される慰安婦だったことが重要だったならば、植村氏は記事でその挺身隊という自認を引いたのではないか。
しかし実際には見出しにも使われず、用語説明的な記述か*4、団体名などの引用でしか用いられていない。
つまり植村記事にある「日本軍人相手に売春行為を強いられた」という証言だけでも、当時から充分な報道価値があったと考えるべきではないだろうか。

*1:「録音したテープを朝日新聞記者に公開した」と取材範囲を明記した記事に対して、録音以外の証言で出てくる「キーセン」の記述が植村記事にないから捏造と判断したことが妥当という判決に、報道のハードルが高くなりすぎないかとは思う。いわゆる悪魔の証明に見えるが、報道や研究においてはより深刻な問題になるだろう。あらためて別エントリで書く予定。

*2:一例として英和辞典編纂者の山岸勝栄氏が、挺身隊と慰安婦の違いを過去から知っていたと主張しながら、植村記事を信じて騙されていたという、矛盾した主張をしていたことがある。英和辞典編纂者で言語学者の山岸勝栄氏が、インターネットの愛国情報を信じて朝日新聞を訴えていた - 法華狼の日記 なお、現在は該当するブログエントリは削除されている。

*3:もうひとつの争点となった、植村氏が証言の聞きとりに同行して12月に報じた記事。その記事では「挺身隊」という言葉はつかわれすらしなかった。

*4:それも金学順氏の自認との差異は「挺身隊」と「女子挺身隊」の違いくらいしかない。むしろ「『女子挺(てい)身隊』の名」という記述は、証言紹介記事としても正確だったといっていい。