法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

津田大介インタビューへの反応を見るかぎり、ジャーナリストとアーティストの政治への距離感を逆に考えている人が多くないだろうか

「あいちトリエンナーレ2019」に自身も出品でかかわっている浅井隆氏が、芸術監督としての津田氏の立場を追及するインタビューを出していた。
あいちトリエンナーレ津田大介芸術監督インタビュー|平和の少女像問題、そして「組織化したテロに屈した」という発言の真意語る - 骰子の眼 - webDICE
具体的な情報が多い読みどころはインタビューの後半、被害届けが受理されるまでに時間がかかった経緯。ここが津田氏がもっともメディアで発信してほしかったところなので、当然ともいえるが。

「警察に脅迫が届いたその日から何度も捜査してくれとお願いしている、このことをメディアも報じてほしい」と報道各社には何度も繰り返し囲み取材などで伝えているのですが、このことをまともに取材して報じてくれるメディアはありませんでした。だから今日僕はこのwebDICEのインタビューを受けているわけです。

被害者側が調査して犯人を見つけられる可能性が出てくるまで警察が捜査したがらなかったエピソードなどは、弁護士が一般論として語っていた警察の態度とも一致する。
このインタビュー後半は大規模な脅迫事件における被害者側証言として貴重だ。容疑者の実名を被害者側の津田氏が削ろうとして、今回はメディア側の浅井氏が残したこともふくめて。インタビュー記事を取材対象が赤入れするという一般的な行為が「検閲」であるかのように解釈する反応もそうだが*1、こうしたメディアへの反応も京都アニメーション放火事件との比較が興味深い*2


それとは別に、津田氏がジャーナリストと芸術監督のあいだで葛藤していたという話が、今回のインタビューと照らしあわせることで意図がわかりやすくなったのも良かった。
関連して、はてなブックマークで下記コメントが人気を集めている*3ように、ジャーナリストと芸術監督の立場がいれかわって理解されているらしいこともうかがえる。
[B! 芸術] あいちトリエンナーレ津田大介芸術監督インタビュー|平和の少女像問題、そして「組織化したテロに屈した」という発言の真意語る - 骰子の眼 - webDICE

tikuwa_ore あいトレを政治の場にしたのは津田で確定という話。>「僕はアートとジャーナリズムの中間的な要素を入れたいと思っていたけど、美術の人はまず美術ということにこだわる」/自己弁護ばかりで読んでて呆れる。

zmk99 “津田氏の校正により19名の作家名を削除”つまり、オトモダチで本来呼ばれるはずのないクズアートがこれだけ公金を使って招聘され、今後の仕事の土台になっているのだ/そして検閲を要求するダブスタ極左金髪豚である

yamada_maya 芸術祭の芸術監督なのにまず芸術じゃなくて政治だったんだなこの人……完全に人選ミス。 / マネキンフラッシュモブのSTOP TPPだのABE IS OVERだのこれ99%デモで政治活動だよね https://www.facebook.com/527336974118416/posts/1134110036774437/

きちんとインタビューを読めばわかるはずだし、実行委*4側の説明にもあるが、不自由展*5全体は津田氏が招きつつも、展示作品は実行委が最終的に選択した。津田氏自身が選んだ19名の作家とは、基本的に不自由展ではなく「あいちトリエンナーレ2019」全体の話と読むべきだろう。
今回のインタビューはもちろん、芸術家側から発信されている意見と照合しても、もし「まず美術ということにこだわる」ならば、より「あいちトリエンナーレ2019」が政治の場になったことは想像にかたくない。


まずインタビューの本編が始まる前に、浅井氏のツイッターにおける雑感が転載されている。ここの「政治的プロパガンダ」という言葉からして、たぶん読者の解釈とは異なっている。

過去の展覧会を持ってくるはずが何故か作家に押し切られ新作は展示してるは、横尾忠則氏の作品は展示を見ていないが列車の写真を展示しただけではないのか。となるとアートの展示はなく検閲されたという文脈だけをパネル展示しているので検閲された作品展示がないとやりたかったのは政治的プロパガンダと言われてもしょうがないかなとも思う。芸術監督が展示の選択にメッセージを込めるのは当然だと思う、がそれは芸術展ならアート作品の展示の力で見せてほしかった。津田芸術監督自身ドミューンでジャーナリストと芸術監督の間での葛藤があったといっていたがあいちトリエンナーレでの肩書きは芸術監督なのでそこはアートで勝負して欲しかった。

ここで批判されている横尾忠則氏の作品は、作品自体が何らかの「政治的プロパガンダ」と読みとられて撤去されたものではない。「不自由」な雰囲気に押し切られた事例といえるだろう。
横尾忠則 | 表現の不自由展・その後

横尾が2004年の第一号「見る見る速い」より取り組んできたラッピング電車の第五号案「ターザン」が、2011年にJR西日本から採用を拒絶されたこと。同社が2005年の尼崎JR脱線事故を鑑み、「ターザンの叫ぶ姿が脱線事故の被害者と重なるという声が出かねない」と憂慮したためだ。

ついでに展示されたもうひとつの作品は、日本軍国主義という解釈から抗議がおこった事例だ。他の作品と違って撤去までにはいたらなかったが、一種のバランスをとるために展示されたと想像できる。

2012-2013年のニューヨーク近代美術館(MoMA)での「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」展で起こった。彼の演劇や映画のポスターに用いられた「朝日」が、旧日本軍の旭日旗(自衛隊も使用中)を思わせる軍国主義的なものと在米韓国系市民団体「日本戦犯旗退出市民の会」が抗議を行った。

一方で、浅井氏が高評価する作品は、難民問題をモチーフに、はっきり政治的なメッセージを前面に出したタニア・ブルゲラ氏のものだ。これは不自由展とは別個に「あいちトリエンナーレ2019」に出品された。

そういう意味では観客を感情とは別に化学物質で泣かすタニアの作品にはアートの力は感じた。その彼女が不自由展中止に一番反対していると聞くが、ドミューンでタニアと共闘して展示を復活するのかという東氏の質問には歯切れの悪い答えしかしなかった津田芸術監督だが、タニアの展示と人気のあるウーゴのピエロが無くなるとあいちトリエンナーレの展示の魅力は大きく損なわれると思うが。

浅井氏が求めるように「アート作品の展示の力で見せてほしかった」ならば、むしろ化学物質のように強い「極左」的なメッセージに満たされた芸術展になったことは想像にかたくない。
そもそも、浅井氏やタニア氏は不自由展の再公開を求めている立場であって、それらの展示が「極左」だから芸術ではないと批判している立場ではない。
ここで浅井氏が「政治的プロパガンダ」と批判しているのは、文章から読みとるかぎり、作品から独立するように表現の不自由を問いかけるという態度のことだ。


また、インタビューの津田氏の説明によると、特に攻撃対象となっている少女像などは芸術者側の実行委が推したものであり、津田氏は懸念した立場という。

あの像がそこに置かれていると、そこに大きく引きずられすぎてしまって、冷静な議論ができない、という懸念を伝えました。だから、資料はちゃんと展示するし、議論の場も作るけれど、像そのものを置くのは止めませんか、と僕のほうから不自由実行展委員会の方に言いました。

この経緯は実行委側の説明とも整合する。少女像ミニチュアの撤去が2015年版の不自由展を生んだ経緯から考えても、津田氏個人が実行委に反して押しこんだわけではないのも当然だ。
そして津田氏が少女像を展示する意義を感じるようになったのは、実物にふれることで芸術としての力を認めたためだという。つまりは浅井氏のいう「アート作品の展示の力」だ。

今の僕は違った印象を持ってます。今回、平和の少女像を展示された空間で作品を見て、横に座ったりした体験から、あらためて力のある作品だと思ったからです。アートというのは芸術の造作だけではなくて、横に座って少女と同じ目線になるとか、横に座ると拳を握りしめていたり、足が浮いていて緊張していることがわかるとか、そういうディテールがよくできている。

今回のインタビューでは言及されていないが、津田氏はエログロゆえに撤去された表現も出展しようと提案したが、実行委との協議によって選ばれなかったという*6
ジャーナリストに近い津田氏はより広く表現の不自由を問おうとしたが、芸術側に近い実行委によって作品が取捨選択されていったわけだ。


ここで思い出されるのが、不自由展に出品したひとりとして少女像を「ファインアートではない」と批判していた中垣克久氏のインタビューだ。
「炎上させずに実施できたはず」表現の不自由展中止に出展作家が反論、“少女像”と自身の作品「なぜ一緒にするんだと」 | AbemaTIMES

なんで一緒にいなきゃいけないのと。あれは工芸と一緒で“用の美”、使用するための美だ。僕たちはファインアート(純粋芸術)で、なんの意味もなく作っている。例えば、僕が政府を批判するなら、あんな難しいことを2カ月も3カ月もかけてやるわけない。

中垣インタビューは津田インタビューでもリンクされているし、中垣氏とのコミュニケーション不足も津田氏側からの説明がある。

中垣さんは不自由展の人たちに「彼らがやりたいのは政治活動で、アートを政治に利用するな」「作家に対するリスペクトが足りない」とずっと怒っていて、とにかく名前を出してほしい、チラシを作ってほしいという話があったので、ただ警備の都合があるのと、愛知県側も物議を醸すであろう企画をホームページに載せることに対して及び腰だったこともあり、多方面に配慮した結果、切り分けたホームページを作ることにしました。

ここで実際の作家である中垣氏と実行委のあいだでも温度差があることがわかるが、中垣氏が批判しているのは芸術で政治的なメッセージを語ること自体ではない。
キム・ソギョン氏とキム・ウンソン氏による「平和の少女像」と、インタビューにも掲載されている中垣氏の「時代(とき)の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」の画像を比べてみよう。

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国際美術展という場所で、日本軍慰安所制度や日米関係を知らない人がふたつの作品を見た時、どちらにより強い政治的なメッセージを感じるだろうか。
たしかに応用芸術ではある少女像より、単体の表現として成立させている円墳こそ、強く作者のメッセージをむきだしにした刺激を感じるのではないだろうか。


なお、私自身は国際美術展へ行った経験はあまりなく、美術館に行く理由も大衆芸術の究極たるアニメ関係の展示会が多い。
しかし政治的なメッセージがこめられれば美術でなくなるという意見は間違っていると考えるし*7、純粋な前衛芸術ほど政治的ではないかのような主張にも首をひねらざるをえない。
思えば、取材した素材を編集することで表現するジャーナリストよりも、たとえ集団であっても作者の考えで表現するアーティストこそ、むしろ作品のメッセージが強くなるのが自然ではないだろうか。

*1:浅井氏は発言を訂正した上で「校正を発言者の検閲と思う人はいないと思います」とツイートしているが、はてなブックマークツイッターの反応を見ても、残念ながら多くの読者に誤解されているようだ。

*2:「表現の不自由展・その後」と「そっちこそどうなんだ主義」 - 法華狼の日記

*3:現時点で「人気のコメント」に入っている。

*4:「表現不自由展実行委員会」のこと。以下もふくめて略記する。

*5:正式名称は「表現の不自由展・その後」だが、以下もふくめて略記する。

*6:津田大介が「表現の不自由展・その後」について「お詫びと報告」を公開|MAGAZINE|美術手帖鷹野隆大の《おれとwith KJ#2》や、ろくでなし子の《デコまん》シリーズなども展示作品の候補に挙がっていたが、様々な理由によって展示に至らなかった」

*7:「表現の不自由展・その後」に言及した貞本義行氏は、いくつもの大切なことが見えていない - 法華狼の日記 煙を描くのも政治的 - 法華狼の日記