法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『GODZILLA ゴジラ』

1999年、フィリピンの地下で休眠している怪獣が2体発見される。日本では同じころ、直下の巨大地震原発が暴走していた。
その事故で母を失ったフォードは15年後、米海軍で爆弾処理をおこなっていた。そして原発の事故と処理に隠された原因があると考えている父ジョーを追い、謎の組織モナークに拘束される。
しかしモナークが管理していた怪獣ムートーが羽化し、米国へと飛び立った。さらに飛行するムートーに呼応して、ハワイやラスベガスで新たな怪獣が出現する……


低予算怪獣映画『モンスターズ/地球外生命体』*1ギャレス・エドワーズ監督による、2014年版のハリウッド映画。最新版『ゴジラ』をつくろうと国内外で動いていた坂野義光監督が製作総指揮に入っている。
映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』公式サイト
物語や映像のさまざまな場面が、いい意味で日本の怪獣映画を思い出させる。
たとえば敵怪獣で多様な見せ場をつくり、敵怪獣の謎解きが物語の主軸になるところは、坂野監督の『ゴジラ対ヘドラ』のよう。眠っている怪獣を地下で発見する冒頭や、ゴジラの肥満気味な体型や、大きさや能力の異なる怪獣とゴジラが戦うところは『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』。『ゴジラ対ヘドラ』に似ているので、共通点の多い『ガメラ2 レギオン襲来』とも当然のように似ている。くわしくは後述するが、吊り橋のシークエンスは『ガメラ3 邪神覚醒』を思い出させる。
そしてそうした日本の怪獣映画の長所を抽出するだけで終わらず、きちんと現代的な映像と物語としてまとめあげている。


まず、特撮映画としての満足感は充分にあった。最新技術でリメイクしてほしかった絵や、怪獣映画として見たいと思っていた絵が、次から次へと展開され、約2時間の上映時間を飽きさせない。
核実験フィルムにまぎれこんでいるゴジラ。巨大クレーンをひきずりこんでいく、脚しか見えないムートー。怪獣の電磁パルスのため使えない現代兵器と、灯が消えて静止していく街*2。戦車が手すりを曲げ、戦いでゆれうごく吊り橋。怪獣が戦っている闇へと降りていく爆弾処理部隊……
怪獣も理解困難な存在と表現されている。VFXの精度にたよらず、的確なカメラ位置で表現される怪獣の巨大感。破壊の痕跡や劇中の映像をとおして、間接的に表現する怪獣の存在感。全身を見せずとも区別できる怪獣デザイン。固有の人格を感じさせつつ、人間を超越した怪獣の神秘性……


残念な描写も少しあるが、意図はわかるし、補完しやすい。
たとえば前半でポイントとなるジャンジラ市に、たしかに地方に原発が追いやられがちな日本らしさはないが、かわりに迫真性が高まってはいる。主人公フォードの周辺が無国籍オリエンタルなのも、インターナショナルスクールがある地域なので許せる範囲。ネーミングも、比較的に新しい時代に名づけられる「市」では違和感あるが、かつて「ジャンジラ村」と呼ばれていたとでも考えればいい。
芹沢大助の父親が原爆で亡くなったというエピソードも、時代があわないと評されがちだが、原爆症で戦後に亡くなったと考えれば矛盾はない。8時15分で止まった時計も、たいせつな記憶として父親が戦後にもちつづけていたと考えればいい。
ただ、最後の核爆発が小規模なのだけは、劇中の説明とも矛盾があるし、なんらかの説明はほしかったところ。たとえば船をしずめて核弾頭を海中に落とすための爆発であったとか。主人公が夢うつつで爆発を目撃するのは意図はわかるがやりすぎだし、タイムリミットサスペンスにしても残り時間を少なくしすぎだった。
そしてこうした残念な部分が許せなかったとしても、日本のシリーズ作品と比べて、極端に悪いわけではない。日本の作品でも、はるかに放射線に無頓着なものがいくつかあった。


物語には、人間と怪獣の家族愛を同等に描く面白さの他に、予想外に興味深い問題設定があった。敵の敵は味方なのか、いま敵に見えるものが味方になることはないのか、そういう問いかけがくりかえされる。
米ソの核実験はゴジラを倒すためだったという冒頭も、さほど悪いものだとは思わなかった。核攻撃ではゴジラを倒せず、兵器として無意味だと印象づける意味があるからだ。この作品では途中から核弾頭こそが人類自身で対処するべきものとなる。何より2014年版のゴジラは、より人類社会にとって脅威なムートーを倒してくれる。もし核実験によってゴジラが生まれた設定ならば、全体として核実験が良い結果をまねいたという構図になってしまう。
ちなみにシリーズ作品の多くが1954年の初代映画へ直接つなげているが、古い特撮映画を現実感の上限にしてしまい、それでいて映画として超えられないことを印象づけるだけに終わりがちだった。2014年版では最初から史実と接続することで、偉大すぎる初代からうまく距離をとった。
ムートーが事故を起こした原発地下で管理され、放射能汚染という偽情報で一帯を封鎖しているのも、核実験と同じような意味がある。ムートーを生かしておいた理由のひとつに、放射線をエネルギー源にするから事故処理に役立つという考えがあったからだ*3。最も脅威となる怪獣なのに、事故を起こした原発のために生かされていたという二重三重の逆説がある。
目前の敵を倒すことばかり考えていいのか、その手段に何を使ってもいいのか、その問いは米国から見た時の原子爆弾にも重なっていく。


そしてゴジラがどのような存在なのか、象徴する場面がくりかえされる。たとえばハワイに初上陸したゴジラを、ビルの屋上から避難民が見つめている場面。いきなり避難民の背後から銃撃がはじまる。軍隊としては避難民を守るつもりかもしれないが、怪獣の注意を屋上に向けかねないし、いきなりの戦闘に避難民は恐慌をきたす。
スクールバスが橋の上で足止めを食らっている場面もそうだ。近くの海でゴジラが浮上し、周囲の軍艦と衝突をはじめる。その軍艦の攻撃が橋にとどこうとした時、ゴジラの上半身が結果として盾となり、スクールバスの脱出を助ける。敵の敵の流れ弾を、敵が防いでくれた構図だ。ここで『ガメラ3 邪神覚醒』の怪獣が子供を救った場面を思い出したわけだが、それを台詞にしないので押しつけがましさがない。
もちろん最後までゴジラがどのような存在であったかは明確にされない。しかし当面の脅威は終わらせつつ、その問いを投げかけて断ち切る結末は、だからこそ誠実で好感をもてるものだった。

*1:感想はこちら。新怪獣ムートーの原型的な描写があったし、戦闘車両を動かすこだわりにも作家性を感じた。『モンスターズ/地球外生命体』 - 法華狼の日記

*2:予告映像を見た時に、ゴジラ設定として考えたことがあることを思い出した。ただしコメント欄で名無し氏が予想したように、映画ではムートーの能力にわりふられていた。ぼくのかんがえたSF怪獣としてのゴジラ - 法華狼の日記

*3:いくつかのシリーズ作品で、ゴジラが核で傷ついたのか核を食べるのか関係性の混乱が見られるが、この作品ではゴジラとムートーに分離することで構図がわかりやすくなっている。