法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『シン・ゴジラ』で怪獣を戦災にたとえた台詞があると聞いて、なぜ最初から天災にたとえなかったのだろうと思っている

鑑賞できるような余裕もなくて、今のところネタバレも避けている*1のだが、たまたま見かけたid:rna氏のツイートが引っかかった。

見ていない立場からの一般論として、物語における会話は作者の意図の反映とは限らない。むしろ登場人物の視点からの一面的な主張でなければ、発した台詞が不自然になりがちだ。
同じく一般論として、物語のあらゆる描写は作者の作為ではあり、意図はどうあれ実際に描写されていたなら様々な読解を許さなければならない、とも考える。
どちらにしても見ていないので判断できないが、関連して20年前から怪獣映画について感じていたことを雑多に書いていく。だから以下は『シン・ゴジラ』の話ではないし、まとまりもない。


まず、1954年の『ゴジラ』を起源とする日本の怪獣映画において、怪獣被害を戦災になぞらえることは伝統的な描写ではあるだろう。最初のゴジラなどは軍事力に傷つけられ、そうでなくともモスラのように人類に被害をおよぼされ、ゆえに怪獣へ同情的な視線が多くの怪獣映画に見られた。
しかし1996年の『ガメラ2 レギオン襲来』では、怪獣被害を太平洋戦争の戦災にたとえた台詞に対して違和感を表明する感想があった。地球生物とまったく異質なレギオンは駆除すべき害獣とあつかわれ、人類同士が衝突する戦争になぞらえるには齟齬が生まれたのかもしれない。
そもそも、第二次世界大戦の日本が戦端をひらいた側だったことは忘れるとして、本土防衛に追われる状況になった時点では逆転の可能性はまったくなかった。さまざまな思惑で戦闘をつづけて、降伏を先送りしたがゆえに被害を拡大させた。
第二次世界大戦の防衛失敗を反省するなら、戦闘で刺激しない方策をさぐったり、国際協調して対処する選択が先に来ないものだろうか。


そこで思うのは、伝統だからと怪獣被害を戦災でなぞらえず、なぜ天災や人災になぞらえないのかということ。
いくつかの怪獣映画に対して、そう感じたことが以前からある。『ガメラ2 レギオン襲来』公開前に阪神淡路大震災があり、一時期は悩んでいたという制作側の発言もある。『シン・ゴジラ』は詳細を知らないが、東日本大震災を想起させる作品でもあるらしい*2
ならば、なぜそれを劇中で台詞にしないのか。いっそ、戦争ではありえない天災として怪獣を位置づけることはできないのか。1954年以来の伝統以外で何か理由があるのか。


もちろん前例に近いものはいくつかある。
先述の『ガメラ2』は、序盤には動く巨大怪獣が出現しない。特撮TVドラマ『ウルトラQ』の一編を思いださせる巨大植物体と、多数のモンスターで街が占拠されるという環境の変化を描いていた。
他に、怪獣を気象現象のように位置づけて対処する怪獣小説『MM9』もある。ちなみに樋口真嗣監督も実写化において参加していた。

MM9 (創元SF文庫)

MM9 (創元SF文庫)

しかしこれはシリーズ1作目だけ読んだ範囲では、直接的な軍備を持たない行政組織とはいえ、怪獣へ能動的に対処していく物語ではあった。意思の疎通を感じさせる怪獣も登場した。


そこで天災の比喩表現としての怪獣をつきつめてみるとどうだろう。既存の技術が無効どころか、倒すという発想すら持てず、ゆえに怪獣を刺激しないことにして、市民と財産を避難させる物語。いわば災害に人格を与えて*3、破壊の規模をコントロールする作品。
戦争ではないので、自衛隊は怪獣災害に対しては各都道府県の指揮下に入る。実質的な指揮をとるのは、普段は資料編纂などの地味な仕事をしているが、その時だけ特異的な知識と処理能力を発揮する窓際公務員。血気にはやる部下や緊急事態にしたがる政府に対して「戦争じゃないんだから」とぼやきながら無理させず避難計画をまとめていく。みんな大好き昼行燈。


そもそも、天災であれ戦災であれ、強権のトップダウンでのみ事態が収拾される局面は多くないのではないか?という感覚もある。
個々に妥当性がありつつ相互に衝突する意見にひきさかれ、じわじわと被害を増やしつつも、ひとつの意見にすべてを賭けて破滅することはない。それが現代社会というものだろう。
自衛隊平和団体も極道も労組も、思想的に対立しながら、直面した災害には呉越同舟のように末端で協力していく。それで友好的になるかというと、災害から離れれば対立をつづける。災害がつづいていても、離れた場所の第三者が対立をあおることもある。
これならば第二次世界大戦の反省を口にしても、むしろ展開として自然になる。戦闘の勝利を重視しないことや、国際協調することの根拠に使えるからだ。


さて、こうして適当に思いつきをこねくりまわした最終形だが、これが放送中の『ウルトラマンオーブ』に近い内容だったりする。
ウルトラマンオーブ 公式サイト | Amazon プライム・ビデオでスピンオフ独占配信中、3/11(土)劇場版公開
ウルトラマンを出さなければならない商業的な制約がなければ、現代的な『ウルトラQ』として成立しそうな作りになっている。『ウルトラマンX』の魅力だったミニチュア特撮は後退したが、大胆な合成を多用して人間と怪獣がからむ絵を作る意欲性は悪くない。
そして、主人公組織を小規模な報道組織にして、公的機関のビートル隊と思想をたがえながら必要に応じて情報を融通する。ジャーナリズムの描写そのものは特に現代的ではないが、断片的な描写をとおすことで地に足がついた防衛隊を描けていることには感心している。
時代にあわせてリニューアルをくりかえしてきたシリーズが、最新作でどのような世界観を見せていくか。わりと本気で楽しみにしている。

*1:それでも漏れ聞こえてくる情報から想像するに、たぶん2004年の映画『ULTRAMAN』に近い作りではないかと感じている。あれくらい余剰をそぎおとしていたなら、たぶん私は楽しめそうだ。

*2:テーマ的にとりいれているという読解が感想をさけていても流れてくるが、そもそも5年かけて映像表現にとりいれることができたという側面があるだろう。

*3:逆に、あたかも人格をもっているかのように災害を描く映画は、よく洋画で見られる。竜巻をVFXで描いた『ツイスター』や、火山活動を描いた『ダンテズ・ピーク』が有名だろう。特に『ダンテズ・ピーク』はスピルバーグ版『宇宙戦争』への助走のような群衆描写と、ミニチュアと実物大プロップを組みあわせた市街の破壊や、巨大ミニチュアによるダム破壊など、「特撮」としての楽しみは多い作品だった。