法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

日本の植民地下で抑圧された朝鮮語の話

いなしたとして、必ずしも批判されるようなことではあるまい→批判しないことはおかしい!というロジックは完全におかしい→君はロジックの基本がわかってないよ…… - 法華狼の日記
上記エントリに対して[twitter:@neon_shuffle]氏から全く応答がなく、Togetterも追記がなされていない。私が誤りを認めて謝罪した部分もあるのだし、目を通してほしかったのだが。
はてサを代表する法華狼が「ハングル弾圧は事実だが、ハングル小説のベストセラーは例外的事象だ!」とアホな主張をしてきたので、徹底的に潰します - Togetter
さがしてみたところ、時期を前後した下記ツイート一つだけ投下されているようなので、あらためて質問しておこう。

しかし自身が直接的に批判される文章は読みにくいだろうとは思う。そこで、これまで紹介した資料について、朝鮮語の抑圧が行われたことはないという反論をどのような理屈で展開するかだけでも、質問してみたい。
http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/thesis/doctor/?choice=exam&thesisID=67

 19世紀末の開化期に生じた言語問題は、話しことばとか書きことばとの断絶の克服にあった。1894年には初めてハングルが「国文」として制定された。また開化期に出版活動、言論活動が盛んになると、朝鮮語規範化運動の必要が強く感じられるようになり、1907年に大韓帝国政府は政府内に「国文研究所」を設置した。しかし統監府時代に日本人が政策に関与する度合いがますます強まり、韓国併合によって言語政策の面でも政策の主体は朝鮮人から総督府に移行することになる。第1編で扱った「普通学校用諺文綴字法」(1912年)は、そうしたものである。


 1910年の「併合」から1919年の三・一独立運動までのいわゆる「武断政治」期は、朝鮮語による活動そのものが厳しく弾圧されたこともあって、朝鮮人側からの朝鮮語規範化への動きはほとんど不可能であった。いわゆる「文化政治」期になって、朝鮮人の文化運動が一定の枠の中で認められると、ようやく朝鮮人側からの活動が活発化する。

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6/

朝鮮語と外来語の表記法、標準語の認定、朝鮮語辞典の編纂(へんさん)など、朝鮮語の研究と整備を目ざした朝鮮語学会の主力会員を、朝鮮総督府が1942年に一斉に逮捕した事件。朝鮮語学会が民族精神を高揚させ、独立運動を企てる秘密結社であるという口実で、治安維持法を適用して弾圧したもので、朝鮮総督府朝鮮語抹殺政策の一環をなすものである。学会員の何名かは獄中死し、何名かは日本の敗戦まで獄につながれていたが、生き残った会員は、解放後、南北それぞれの国語学界の中心的存在として活躍している。

http://www.kansai-u.ac.jp/fl/publication/pdf_aids/29/1-5_kumatani.pdf

 植民地下朝鮮における「罰札」の使用例は、当時の新聞記事からも確認できる。たとえば、朝鮮
総督府機関紙「京城日報」には、誠信家政女学校における以下のような例が紹介されている。この
女学校では、「国語常用」が「内鮮一体」の第一歩であり、「第二国民」を養うべき「次代の母」が
「国語常用」を徹底させなければならないという考えから、学校内で「国語」の使用を怠って朝鮮
語を用いる者がいれば、「国語の愛用、発音を正しく」と記された札を、この「過失者」に付けさ
せて反省を求めた。そしてこの「罰札」は、その後発見される新たな「過失者」に廻されていくと
いう類のものだった25。
 咸鏡北道の吉城国民学校では、児童間での会話、もしくは「国語」のわかる人との会話で「国語」
を使わなかった場合、「国語常用表」に×印が付されるとともに,「国語常用違反章」を首からさげ
させられたという。この「違反章」を首からさげた者は、他の違反者を見付けると、この「違反章」
をこの新たな違反者の首に下げさせることができた。また、「国語常用表」の×印が3 回以上にな
る者は停学処分に付されたという。このほか、「国語全解運動日誌」を作成し、児童が自宅でも実
行すべきこととされていた「国語常用」の状況を記入させ,家庭でも国語を常用している児童には
「国語章」というバッジを付けさせていたという。

特に最後で紹介したPDFファイルの論文は、ぜひ全体へ目を通してほしい。