法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『エスパー魔美』第18話 サマードッグ

原作マンガでも傑作と名高く、アニメ版では監督である原恵一が直々にコンテ演出を手がけた。


悲しむ子供というミニマムな描写から捨てられた犬の物語への興味を引き、徐々に普遍的でマクロな出来事へと視野を広げていく。もちろん高畑君の情けなさや勇気、優しさといった描写で起伏を作っていくことも忘れない。物語が進むにつれて立ちあらわれてくるのは、ひと夏だけ愛玩された後に捨てられた犬達。その成れの果てである野犬と人々の衝突、そして断絶。その犬達は「サマードッグ」と呼ばれる。
物語が普遍的な問題を描くゆえに、いつもは問題の把握と解決に繋がる高畑君の知性や魔美の超能力も、ミニマムな問題を解決するところまでしか寄与できない。異常な事件を解決して社会を回復する超能力は、社会に根ざす問題を解決できないのだ。むろん、社会の残酷さに対して無力であることと残酷さを必要悪として認めることを、とりちがえたりしないよう慎重に描かれる。
物語は魔美が知らないところで決着する。犬と人だけでなく、人と人にも断絶が存在する。それも、先に犬と子の顛末で描かれたように、必ずしも悪意だけが断絶を生むのではないと示す。ここでも社会の、人の営みそのものが問題を作り先のばしにしていく。


さらにアニメ版では無言で進行する冒頭の劇、結末で描かれる村人の心情、ラストに魔美が飼う犬が遊ぶ光景に無音でサブタイトルが出てくる作品フォーマットいじりで、情感を深めつつ原作よりも引いた立場、広い視野で物語を見つめる。点描される風景が、確かに物語の舞台が存在していると実感させる。
村人の優しさは、人に善と悪の両面があることを伝えるにとどまらない。その優しさが、問題を先延ばしにしていくことに変わりはないことも描いている。冒頭のバスで高畑君にトウモロコシをくれた老婆が次にタバコを差し出し、それを高畑君が断る描写が、現在の感覚で見ると象徴的だ。サマードッグとの繋がりを思えば、古い田舎の道徳観をよくあらわしているにとどまらない。贈り物をする善意は、その内容に頓着しない。


1つだけ、犬の感情変化を作画で描いてしまうという無茶な直截描写をやってしまったところだけ不満だったが、結末の落差を理解させるためにわかりやすさを優先したのだろう。
この話は現在GYAOで無料配信されているので、視聴するならお早めに。
http://gyao.yahoo.co.jp/p/00714/v07581/
話数が異なるのは、なぜか第17話が配信されていないため。きちんと配信された第16話から連続したエピソードのはずなのだが。
今見られる話では第19話から続く第20話「電話魔は誰?」も良かった。題名から受ける印象に反して、Bパートからは某邦画をオマージュした描写が延々と続く。潮が匂ってきそうな漁村の風景は、時代性を考慮した上でかなりのもの。陽気でいて正義感ある父親や、見事な推理力を発揮する高畑君といった、シリーズお約束の魅力的なキャラクター描写もちゃんとひろっている。