法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

魔法少女の深淵を覗く

神話的で伝説的な魔法少女の極北は、超能力少女だった - 法華狼の日記の、はてなブックマークコメントへ返答。

id:hokusyu 20年くらい読んでないのでなんともw/こんな話も。「藤子・F・不二雄は一度だって、読者に夢を与えたことなどなかったし、そのことに誰よりも自覚的だった。」http://www.meijigakuin.ac.jp/~katos/FUJIKO.htm 2011/03/04

興味深い批評の紹介に感謝。内容も妥当で、大人向けSF短編も読むようなコアな藤子F作品読者の共通認識に近いものだと思う。
ただ、とりあげられている『分岐点』や『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』といった前期SF短編の水準に藤子F作品がとどまっていないことは注意。理想や行動が成功に繋がるわけではない諦念を持ちつつ、「でも、(無理せず)やるんだよ」な精神を同ジャンル作品『パラレル同窓会』や『中年スーパーマン左江内氏』にそれぞれ見いだすことができると思う。
以前にもhokusyu氏のエントリへ言及する形で藤子F作品を紹介したことがある。究極の選択を押し付けられた痛みを素直に物語化した『カンビュセスの籤』、知恵と行動で究極の選択を克服した『宇宙船製造法』、究極の選択について思索を重ねた結果として諦観を持ちつつ日常の中に理想を組み入れることにした『マイ・シェルター』と、時をへて冷笑を乗り越えていった。
『カンビュセスの籤』を読む - 法華狼の日記


id:angmar 魔法少女のマスコットは魔法少女以上に境界の向こうの論理に従う存在。「橋渡し」役は半人間的な別の存在が負うことが多い。むしろ高畑より、作中で何度か超能力との関連が匂わされたコンポコの方が的確。 2011/03/04

そういえば、確かに何度かコンポコと超能力の関係は疑われていた。「時に助けられたりもするが、超能力とは関係ない」と断言したのは不正確だった。指摘多謝。
本題の、高畑こそが契約相手という話は、うまく話を伝えられなかった様子。『魔法少女まどか☆マギカ』のQBみたいな、魔法少女に行動動機や指針を与えたり魔法世界の倫理観を教えるような存在は、コンポコではなく高畑に当てはまるのではないか、ということを私は主張したかった。
コンポコは魔美と意思が通じている描写はあるが、あくまで目線や感情はペットのまま。超能力を使う者の葛藤や、異なる能力を持つがゆえの異なる思想を知っている様子はない。比べて高畑は魔美よりはるかに超常現象に通じており、超能力を持つがゆえの苦悩も魔美が直面したり意識する前に予測して言語化している*1。注記で紹介した「サマードッグ」は、魔美より先に結末を知り、魔美から隠す判断までしている*2
一種の二次創作として仮想すれば、おそらく高畑はQBの倫理観を理解した上で、人間側の倫理観をQBにも理解できるよう言語化し、交渉することもできるのではないか。あるいは「さやか」の苦悩を受け入れて、次善の答えへ導く支えもできるのではないか*3。「力」ではなく、魔法少女ならではの「心」を魔美よりも知ることで、人間社会へ繋ぎ止めることが高畑にはできる……と、そう思ったわけ。

*1:あまりにも頭が良いため、学校の成績はあえて上がりすぎないよう気をつけているというエピソードまである。この意味では、考えなしな魔美より、超常能力を持つ苦悩を日常的に直面している。

*2:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20101025/1288023362逆にコンポコは、アニメ版においては何も知らない無邪気さの象徴として扱われていた。

*3:美樹さやかの苦悩は苦悩のための苦悩であって、他作品のキャラクターを引いて解決することに物語上の意味はないかもしれないが。どちらかといえば、たとえば第4話で助けた人間達にホストがいるような伏線がなかったとか、貢がれていることを知っているホストと助けられたことを知らない上条という差異が言及されないとか、第8話は苦悩へ導く展開が不自然という問題を感じた。