法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『エスパー魔美』の名言は、批判を忘れておしまいにしようという主張ではない

表現の自由から批判の自由が話題になる時、よく『エスパー魔美』から引用される頁がある。「くたばれ評論家」で、主人公と父親が会話する場面だ*1

公表した表現が批判されることを覚悟すべきこと。批判することも反発しかえすことも自由であること。
そうした表現の自由にまつわる主張が、表現者である父親の人格とともに描かれ、この頁だけでも普遍性をもっている。


しかし、この頁だけがひとりあるきしていることは残念だ*2
物語が知られていないのはしかたないとしても、書かれていない主張が読みとられることまでいいとは思えない。描かれているのは絵画への批判なのに、政府や司法への抗議と同一視する主張すらある。
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そのように批判を自由にさせることと抗議を放置することを混同してしまえば、とるべき責任まで消されてしまう。


まず、父親は「おしまい!!」といっているが、批判を単純にすべて忘れようとは結論しない。
たしかに引用の直後にも「つまらんことにいつまでもこだわってないで、さっさと忘れなさい」*3と語っている。しかしそれも主人公へ向けた台詞であり、批判に対しての本心とは限らない。そもそもこの頁は物語の中盤にすぎない。
実は批評家は、病におかされながらライフワークの論文を完成させようとしていた。それを両親の会話から知った主人公は、エスパー能力で病を治してあげる。

批評家が治ったことを知った父親は、「また、悪口をかかれるわよ」と笑う母親に対して、「ばかいえ!そのうち、あいつにもけなしようのないすばらしい絵をかいてみせるさ」といいきる*4
つまり父親がいう「おしまい」「忘れなさい」とは、批判のことではない。批判と非難の区別がつかない主人公はともかく、父親自身は「おこった」という感情的な反発だけ終わらせつつ、作品でこたえようとしているのだ。
この物語は、批判を自由に放置して無視しようという呼びかけではない。むしろ批評との健全な応酬で作品が向上する可能性を描いている。


また、父親と主人公のやりとりにいたるまで、複数のつみかさねがある。
最初に主人公は友人に相談する。作品において、もっとも知的といっていいキャラクター「高畑さん」だ。批評家へ抗議をすると聞いた高畑さんは、「意味ないなあ……」「だって、その人はそう感じたから、そうかいたんだろ。抗議されたからって、訂正するわけもないし……」とさとす*5。同時に、主人公が抗議したい気持ちについても気がすむならと許して、エスパー能力で移動しやすくする手助けまでする。
批評家の家に行くと、時間がないと断られる。病をおしてライフワークを書いている伏線だ。それを知らない主人公が瞬間移動して入りこむと「非常識な人だね。会わないというのに強引に……」*6としかめつらになりつつ、手短にすませようと話は聞く。冷静になって読むと、かなり器のおおきい人物である。
主人公の言葉や顔立ちから、酷評した画家の子であり、作品のモデルだと批評家は気づく。ここで父親のことを「十朗くん」*7と敬称をつけて呼んだ描写に、批評家の立場や性格があらわれている。
そして批評家は、「情け容赦もなく」という抗議には「情けとか容赦とか、批評とは無関係のものです」と答え、「どんなに情熱をそそいだか」という話には「芸術は結果だけが問題なのだ。たとえ、飲んだくれて鼻唄まじりにかいた絵でも、傑作は傑作。どんなに心血をそそいでかいても駄作は駄作」*8と断言する。

この批評家の主張も有名だろう。しかし批評家も心血をそそいでいることを思い出してほしい。ライフワークの評価とは独立して、批評家個人は好感をもてる人物として描かれている。人格批判と作品批判は違うのだ。


さらに、事実認識が誤っている批判まで自由とは、この作品は主張していない。
物語において、批判に対する具体的な反論はない。先に紹介したとおり、主人公は父親の奮闘を語るだけ。父親自身も、雑誌に「くたばれ!!」「だいたいな、おまえなんかにだな、絵がわかってたまるかってんだ!! ヘッポコ評論家め!!」と叫び、こそこそ投げては踏みつける*9
一方で、批評家の文章はかなり具体的だ。「あいもかわらず、古めかしい絵にかいたような絵が……描写はうわすべりで、鋭くうったけかけるなにものもなく……、とくに連作「少女」の文字どおり少女趣味でセンチメンタルなあまったるさには閉口……。」と、くわしく個展を評している。これは妥当な批判ではあるだろうと、ひとりの読者として感じた。
酷評されている「佐倉十朗展」だが、実は別の回で具体的に描かれている。おそらく「名画(?)と鬼ババ」の個展と同じものだ。高畑さんが見にいくと客はいないし、写実的な風景画や人物画ばかり*10

連作「少女」も主人公をモデルにした裸婦像というだけ。さすがに情念は感じるが、当時でも芸術としての新しい視点は評価されそうにない*11
後から入ってきた裕福な客も、「社長、この画家は画商にはまったく問題にされておりません」「そうかい?あたしゃいい絵だと思うけど」「まちがっても、将来値上がりするようなことはございませんですよ」「じゃあ、買ってもしょうがない」と部下とやりとりして、投機目的にすぎなかったことと、業界内で評価されていないことが明かされた*12。むしろ、よく雑誌の月評でとりあげてもらえたものだ。


もちろん、妥当性とは独立して批判の自由を認めたからこそ、この物語には普遍性がある。しかし自由と忘却を混同して、批評を無視していいと解釈するには、作中の批判に妥当性がありすぎる。
ちなみに批評家がライフワークとしている論文は「白鳳文化と祆教美術」という。原作者の歴史趣味が反映された論文名ではあるだろう。しかし美術史がメインの批評家ですら「古めかしい」と酷評したことは、よほど作風が古いという強調と考えていいはず。おそらく画家をサブキャラクターとして漫画で登場させるには、前衛的な表現者は難しかったのだ*13
この「くたばれ評論家」は、普遍的な批判の自由を描いているだけではない。サブキャラクター描写の古臭さを自覚的に物語として昇華し、作品全体の世界観を強固にしている。批判を意識することで、見える世界が広がるのだ。

*1:藤子・F・不二雄 大全集 エスパー魔美(1)』154頁。ただし画像は別単行本からの引用であるため、台詞内の「全部」が「ぜんぶ」になり、頁数も異なっている。また、以降に文章で台詞を引用する時、ルビを排する。

*2:最近では、ゆうきゆう❤️マンガで心療内科 on Twitter: "藤子先生のマンガ。このスゴイ点は、 「すべての人に感想を述べる自由があり」 「作者や発言者にも、それにどう反応するかの自由がある」ということ。 あなたの発言に何かを言う人がいても 「すべてを聞き、その通りに従う」必要はありません。 http://t.co/3Oqu2rXOGP" / Twitterゆうきゆう❤️マンガで心療内科 on Twitter: "本当にありがとうございました!ご感想まとめると 「作品や発言への批評は自由だが、批評そのものも同時に『作品』」 「作者や発言者は同時に、その作品の『客』であり、同じく反応も自由」 というのがシンプルなのかなと。みな自由。 あと漫画名は「エスパー魔美」です。オススメなのでぜひ。" / Twitterで、ゆうきゆう氏が紹介していた。

*3:155頁。

*4:162頁。

*5:144頁。

*6:150頁。

*7:150頁。

*8:151頁。

*9:140頁。

*10:89頁。ここでも主人公は父親の努力だけを口にしている。

*11:どちらも漫画の初出は1977年。

*12:94頁。別の客と絵をとりあいになったりもするが、これは作品に魅力があったというより、描かれた風景がなつかしかったという理由が大きい。

*13:1979年に初出の『ドラえもん』「自動質屋機」では、ラクガキのような抽象画が高額で売れるという展開はあるが、あくまでゲストキャラクターのどんでん返し。それを見たドラえもんのび太は、作品そのものの価値は最後までわからない。てんとう虫コミックス18巻92頁から紹介する。個別「20150611000052」の写真、画像 - hokke-ookami's fotolife