法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

日本の漫画やアニメが社会学者や教育学者によって不当に弾圧されてきた歴史はどこにあるのだろうか?

 狸穴猫氏が3月11日に書いた下記noteが多数のはてなブックマークを集めていた*1
世界中で愛される、日本の「マンガ・アニメ」は、社会学者や教育学者によって不当に弾圧され続けてきたことを掘り起こしておく|狸穴猫(まみあなねこ)
 鳥山明急逝を受けて、『ドラゴンボール』などの漫画やアニメが日本に興味関心をもつきっかけとして重要になっていることを指摘して、そのように愛されている文化を社会学者や教育学者が弾圧してきたと主張している。

非常に無粋ではあるのだが、ここはやはり「マンガ弾圧・迫害」の歴史をひもといて、まとめておく必要はあるだろう。
社会学者や教育学者が、相当昔からマンガやアニメを貶めるためのウルトラ詭弁を、世間にまき散らしていたのである。

 もっとも狸穴猫氏自身は同時代に『Dr.スランプ』を読んで、『ドラゴンボール』は息子とアニメを見て、『ドラゴンクエスト』のキャラクターグッズをひとつもっているだけのようだ。

早すぎる!なんでこんなに早くに逝ってしまうんだ!と思った。
リアルタイムでDr.スランプは読んでいたし、ドラゴンボールのアニメは息子が小さいころに一緒に楽しんでいた。そしてしっかり、うちにも「スライム」がいる。

氏の訃報に触れて同様に思った人は多い…

 2013年に公開されたアニメ映画『ドラゴンボールZ 神と神*2以降、鳥山明自身が深くかかわるかたちで新作アニメが定期的につくられている現行コンテンツなのだが。


 あまりアニメや漫画を愛好している気配もなく、話題になった当時は読まなかったが、「墨東公安委員会@bokukoui」氏*3の引用リツイート経由で、瀬川深氏*4の批判を知った。


とはいえ昭和40年代辺りまでの漫画なんて粗悪品だらけ、手塚や石森が例外中の例外だったわけで、同時代に生きてなお「いかなる漫画も守るべき」と全肯定できた確信のある人でもなければただの後知恵孔明なんだよな。


瀬川先生がリンクしてる note の書き手、「表現の自由戦士」で、呉座勇一さんの騒動でオープンレターや人文学を攻撃し、暇アノンにどっぷりはまっている、どうしようもない人ですね。私のこともいろいろ無理筋で論ってました。関係ない人やことでも「社会学者」にこじつける芸風ですね。

 たしかに俗悪な漫画は漫画家のなかすらも批判されていたし、それに抵抗する新しい漫画家や読者の動きもあった。現在は寺田ヒロオによる怪奇漫画批判は時代をこえられなかった漫画家の挫折として知られているし、赤塚不二夫がデビュー直後の永井豪を面と向かって否定したという証言もある*5
 もちろん裾野が広くなければ山は高くなれないし、俗悪には俗悪の価値があると考えたいところだが、表現は批判をふくむ評価に応じて進化していくものでもある。
 1980年にはじまった『Dr.スランプ』が高評価されているとして、それ以前の時代における漫画の低評価が不当という根拠にはならない。現在に世界中で『ドラゴンボール』の価値が認められているとして、それ以外の漫画やアニメへの批判が不当になるわけではない。狸穴猫氏が鳥山明の世界的な賞賛だけをもちだすのであれば、手塚治虫長谷川町子のような一部だけ賞賛することと大差はない。
 そもそも国内外で愛されていることは批判してはいけない根拠にはならない。『ドラゴンボール』のTVアニメは、ひきのばしのひどさから原作ファンからもよく批判されていた。日本の漫画やアニメ以上に世界で愛されているディズニー作品を批判すべきではないかというと、けしてそうではないはずだ*6
 そこで狸穴猫氏のnoteを読んでみたところ、その主張の薄弱さが自らの出した根拠で明らかにされていくような内容に困惑した。


 まず狸穴猫氏は社会学者、日高六郎氏が1955年に書いた文章を『お母さんから先生への100の質問』から引く。国立国会図書館デジタルコレクションで手軽に読める。
お母さんから先生への100の質問 - 国立国会図書館デジタルコレクション
 その内容は悪い読物や漫画ばかり読む子供に良い本を読ませたいという相談への回答で、まず漫画を読むことを親に否定された児童の作文を引用するところからはじまっている*7。それを狸穴猫氏は下記のように評する。

のっけからかなりたちが悪い。

「親にはやめろといわれ、マンガは悪いものだと認識しつつ、マンガが好きだからやめられない」という児童の作文を引っ張り出し、これを読んだ「母親」に対して「そんなに好きなら読ませてもいいと思う人もいるかもしれない」と、その気持ちに対して理解があるかのような書きクチでスタートする。

典型的な「Foot in the door」方式の書き方である。

 しかし引用された範囲で実在する親はすべて漫画を否定している。漫画を読ませてもいいという母親は、わざわざ日高氏が子供の気持ちをうかがえる作文を紹介して、これを読めば容認する親もいるかもしれないと日高氏が想像したものだ。漫画を読ませたくない親に漫画を読んでもいいと思わせることの、どこが典型的な「Foot in the door」だろうか。
 狸穴猫氏は、漫画や絵物語を読ませても問題ないという教育学者がいるという部分も日高氏の文章から引く。

教育学者の中にも子どもたちは漫画を読んで平生おさえつけているいろいろな欲望を「解放」させているのだから漫画や絵入り物語を読むのはさしつかえないことだ、と考えている人もいます。実際、子どもの好きな漫画を無理にやめさせて、いやがる「良書」をおしつけて読ませる(そのようなことができるかどうかは別として)ことよりも、自由放任主義の方が、まだましかもわかりません。
 しかしおしつけ教育主義がまちがいなら、自由放任主義も間違いなのです。

ちょっとまて…といいたくなる。
どこの誰ともわからない教育学者の「心理的解放」を理由にした漫画容認論を引き合いにだしつつ、良書を押し付けるよりも漫画を容認する「自由放任主義」のほうがまだマシかも…と、読者の思考をゆさぶりつつ

「漫画容認=自由放任主義」というラベリングが、いつの間にか滑り込んでくるではないか。

 こちらこそ、ちょっと待てといいたくなる。制限をかけずに漫画を容認する立場を自由放任主義と呼ぶことに何の問題があるのか。
 そもそも狸穴猫氏は教育学者が漫画を弾圧していたと主張していたはずだ。しかし意見が異なる日高氏も全否定せずに紹介するくらい、漫画を完全に容認する教育学者にも存在感があったことが引用文からうかがえる。
 以降に引用される日高氏の文章も、子供が漫画を読むことを親が否定する時代において、必ずしも全否定せずに親へ理解をもとめている。

 そういうやり方をしながら一方でよい童話やよい漫画を、きかせたり読ませたりします。そして、それと「悪い」漫画や物語とくらべさせます。そんなとき、兄弟や近所の子どもさんたちと一緒だと、なおよいのです。子どもたちに、たがいに感じたことを自由に話させあっているうちによい童話などに興味をもってくる子どもがでてきます。

さんざん「漫画はよくない」という前提で話をしながら、いきなりここで「よい漫画」なるものが出てくるのだが、これは単に「よい漫画はないというのか?」と問われることへの予防線かもしれない。

 そもそも日高氏の文章は子供が漫画ばかり読むので困るという親への回答だ。「漫画はよくない」という前提に立っている親に対して「よい漫画」を子供にすすめさせているわけで、むしろこれこそ漫画を親に認めさせる「Foot in the door」ではないだろうか。
 念のため、日高氏のような根拠や基準で漫画を区分することへの批判はあるだろうし、完全な容認にしても欲望の解放という位置づけであれば文化としての価値を認めているとはいいがたい。しかし教育学者による弾圧や迫害の歴史とされることには疑問をおぼえる。
 日高氏の文章が掲載された書籍の続編から、あえて子供たちに漫画を読ませた鴻巣良雄氏の実践例も狸穴猫氏は紹介する。子供たちはどれも同じ筋と考えるようになったり、原作小説を漫画より高評価するようになったという。

①マンガを授業でとりあげ
②あらすじを子供に抽出させ
③マンガに出てくる暴力性について検討させた
④マンガはみんな筋が同じとわかる子がではじめた。
⑤名作児童文学をマンガ化したものより、原作が面白いと気づく子がではじめた。

 卒業するべきものとして漫画を位置づけることは違和感あるかもしれないが、鳥山明を現行コンテンツとして追っていない狸穴猫氏と大差は感じない。当時は子供向け貸本漫画と大人向け風刺漫画は断絶していたことも考慮すべきだろう。
 ここで狸穴猫氏は下記のように当時の漫画がそのように子供たちにも評価されうることを認めてしまっている*8。本当に当時の評価に反論したいなら、当時の水準的な漫画をもちださなければならない。

「長編マンガ」というものが少なかったがために、こういう子供だましが通用したのかもしれないが、「漫画は低俗」という大前提がおかれている。

 オタクの代表格とされていた唐沢俊一*9が1990年代に貸本漫画を復刻した時も、埋もれていた傑作を高評価するよりも、粗さを揶揄しながら魅力を見いだしていた。


 それに批判が不当だとしても、それは弾圧や迫害と同じではない。日高氏も公権力による規制を明確に批判している。
 そこで狸穴猫氏は悪書追放運動に教育側が言及した事例をひいていくが、引用された範囲を読むかぎり、社会学者や教育学者による弾圧や迫害とはいいがたい。

1970年の日教組教研集会報告を読むと、社会学者の稲葉三千男氏が、実に盛大かつ荒唐無稽な「マンガ・アニメ批判」を繰り広げている。

丁度、永井豪先生のハレンチ学園がエロ扱いで大々的に批判された時期なんだけど、とにかくマンガはすべて低俗扱いというところだ。

この時期になると様々なルートから、出版元に直接圧力をかけていくというやり口が常態化していたようだ。

1955年前後に児童文化関連の団体等が少年雑誌のに対するネガティブキャンペーンを張り、それがある程度の成功を収めてしまったことが関係するのかもしれない。
1952年に発足した日本子どもを守る会という団体がその要となった模様。
https://kodomowomamorukai.org/introduction/history/
日本子どもを守る会の副会長であった菅忠道氏の著書『児童文化の現代史』には以下のような記述がある。

 どちらの引用画像を見ても*10、稲葉氏も菅氏も第三者のように悪書追放運動の流れをまとめていて、ネガティブキャンペーンの成功を誇るような内容ではない。
 稲葉氏の文章を読むと、マスコミ批判に理解を示しつつ運動にも「非常な問題点」があると主張している。漫画の『ハレンチ学園』の自粛をもとめているのは三重県の青少年保護審議会で、『アシュラ』を掲載した『少年マガジン』を有害図書に指定したのは神奈川県の児童福祉審議会。弾圧や迫害をおこなっていたのは地方自治体だ。
 菅氏は長編漫画の草分けである松下井知夫手塚治虫の文章を引用している。読むと、漫画の俗悪さを批判したのは父兄やジャーナリズムであり、とりしまりを提唱したのは読売新聞社。それに応じて漫画家も日本子どもを守る会に参画して改善をはじめたと記述している。


 ひとつの漫画に対する稲葉氏の要約を引いて、狸穴猫氏は下記のように論じている。

途中には「おれのおやじは部下の女事務員に惚れました。惚れてちょっかいを出しました。だけど女には夫がいました。それでもおやじは女を追いました。馬鹿な中年男は愛の破局を知り、そして女を殺しました。おまけに自分も海に飛び込んでしにました。」私なんかも「馬鹿な中年男」に属していますし、「現実」世界にはたしかに「馬鹿な中年男」もいないわけではありませんから、子どもにも早くからこういう「現実」を教えておくのも悪くないかもしれませんけど、こういうマンガが「本格純愛ドラマ」と名打って出てまいります。

マンガを貶めたいお気持ちだけで筋書きをピックアップしてるとしか思えない。

文学ならよくてマンガだとアウト…というところだろう。 悪意満々で筋書きだけピックアップしたら、同程度のヤバさが醸し出される文学作品なんていくらでもあるだろうに…。

森鴎外の「舞姫」とか、田山花袋の「蒲団」とか…ああ、極悪非道か変態か?という筋書きのピックアップの仕方はできてしまうではないか。

 もし稲葉氏が漫画のかわりに『舞姫』や『蒲団』を推奨しているなら反論として成立するかもしれないが、その根拠はどこにもない。実際の漫画と見くらべないと同等だという評価もできない。その意味では稲葉氏が作品名や作者名を隠していることこそ批判すべきかもしれない。
 稲葉氏はアニメの『アタックNo.1』にナショナリズムを見いだしていたそうだが、活躍が期待された「東洋の魔女」が東京五輪以前に引退を表明した時に「非国民」と罵倒された時代を思えば*11、的をはずしているとも断言できない。


 現実には、当時の児童向け小説も相応に教育面から批判の対象にされていた。
 菅氏は児童文学の研究者として、1956年に代表作の『日本の児童文学』を出している。国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスで読めるが、人間性蔑視や人種差別観や侵略思想のある読物が横行したことや、童話が名作や大家に偏重するなかで中堅以下の作家がしめだされたことも問題視されていた*12
日本の児童文学 - 国立国会図書館デジタルコレクション
 ひとつの表現手法を研究の対象にするということは、個別の作品や傾向が批判の対象にされうるということ。逆にいえば個別の作品が批判されているだけでは、その表現手法をおとしめていることを意味しない。
 さらに狸穴猫氏が引用していた1968年の『児童文化の現代史』も国立国会図書館デジタルコレクションで読めるが、1952年が初出の文章によると、やはり漫画だけでなくチャンバラや冒険活劇や感傷的な少女小説を「わるい読物」にふくめている*13
児童文化の現代史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
 しかも原文でもカギカッコに入れているように「わるい読物」という評価は菅氏の見解と同一ではない。手塚治虫の漫画『メトロポリス』等について、絵や物語の構成が群を抜いて卓越していることや、俗悪な赤本のなかから発見した子供たちの鑑賞眼を認めて、いちがいに漫画を「わるい読物」あつかいする当時の風潮に警鐘をならしている*14

 菅氏は前後した章でも『メトロポリス』を具体的に賞賛していた*15。こちらの初出は1960年で少し遅く、改稿されている可能性もあるが、1970年よりも前に書かれたことはたしかだ。

いりくんだプロットが、はりめぐらされた伏線を縫って、歯ぎれよく展開してゆき、主人公の悲劇的な境遇に読者は同情の思いを深くし、主題の言葉「おそらく、いつかは人間も発達しすぎた科学のために、かえって自分をほろぼしてしまうのではないだろうか」ということについても考えさせられてしまう。このニヒリズムの影を少年たちは「運命悲劇」と称して感動したのであった。

 1970年に神奈川県で『アポロの歌』が有害図書とされる時代を思えば、むしろ弾圧や迫害の対象にされる漫画に早期から価値を認めていたと考えられる。
 そして子供を信じて「わるい読物」もふくめて読ませれば早く卒業させられると主張し、そのために「わるい読物」の具体的な研究も必要とを提唱している*16
 また、菅氏は「わるい読物」という言葉の中身にもふみこんでいく。読物がわるい影響をあたえたとされる具体例として警視庁が1948年に出した『少年の補導』から事例をひいて、読物を好んでいたという情報は誘導尋問や子供が便宜的に主張した可能性があると指摘。どの事件も具体的に見ると読物を模倣したものとは思えないとも論評して、読物が無縁ではないとしても子供の性格や現実の社会に原因を見いだしている*17
 つまり漫画が弾圧や迫害され、官憲に問題視されていた時代において、悪影響を疑問視したり、研究の対象になりうると主張していたわけだ。


 狸穴猫氏は下記のような構図があったと主張している。

マンガもアニメも特撮ドラマも、「健全な児童文化の発展」を願うといった名目で、教育学者や社会学者によって、極めて不当におとしめられてきたのだ。

①学者が煽り
②児童文学者や母親団体がエスカレートさせ
③新聞などがそれに追随

という構図である。

 しかしこれまで根拠をこまかく見ていくと、実際は公的な弾圧や親の不安に対して、学者が一定の容認をもとめる構図が多かった。
 また、狸穴猫氏は学者が図や画で抵抗を示すという不思議な主張もおこなっている。

彼らが唯一、完全に打ちのめすのに手を焼いたのが「漫画」であったのだ。彼らは「図や画」で表されるものに思い切り抵抗を示す。

萌え絵一つでも、盛大に読み違いをする例は後を絶たない。
ああ、きっと「読み間違い」だよ、彼らには「難易度が高い」のだ。

 しかし提示される具体例は文章の設定が批判されて修正をすることになった「温泉むすめ」であったりする*18。自説にあてはまらない根拠と気づかないのだろうか。

漫画もアニメも、立派な日本の文化の一部である。
文字文化至上主義にはそろそろ決別するときが来たのではなかろうか?

 個別の社会学者や教育学者が文化に対して不当な批判をおこなったり、弾圧に加担した事例はあるかもしれない。しかし実際には社会にはびこる文字文化至上主義に対して、漫画やアニメの価値を主張したのが社会学ではなかったろうか。
「墨東公安委員会@bokukoui」氏を引用リツイートした相場ひろ氏は下記のように証言しているし、事実として1990年代初頭にはアニメや特撮が学術のよそおいで論評される流行もあった*19


1970年代末から一般紙の時評欄で積極的に漫画をとりあげて論じ、その作家性を称揚するとともに、時代の反映としての価値を見出したのは社会学者でした。
私は大学に入るまで、社会学というのは漫画を研究する学問だと思ってました。

 むしろ漫画やアニメの愛好家のなかには、そのような権威や世界的な評価に左右されたくないという感覚すらあるのではないだろうか。

*1:現時点で500users以上。ただし漫画への弾圧や迫害を批判する立場からも、疑問視するコメントが散見される。 [B! マンガ] 世界中で愛される、日本の「マンガ・アニメ」は、社会学者や教育学者によって不当に弾圧され続けてきたことを掘り起こしておく|狸穴猫(まみあなねこ)

*2:『ドラゴンボールZ 神と神』 - 法華狼の日記

*3:ちなみにハンドルネームは『逮捕しちゃうぞ』から引いたものだという。つまり一般的にアニメや漫画の愛好家にふくまれるだろう。

*4:はてなアカウントはid:segawashinで、ツイートははてなブックマークのコメントと連携したもの。

*5:永井豪氏「赤塚先生にだめと言われたことを全部やった」|NEWSポストセブン

*6:世界でも日本でもヒットした作品にかぎっても、たとえば『アナと雪の女王』は公開時の絶賛が不思議なくらい無駄が多いと感じたし、3DCGリメイク版『ライオン・キング』は映像と物語の不協和音に感心できなかった。 『アナと雪の女王』 - 法華狼の日記 『ライオン・キング』 - 法華狼の日記

*7:ノンブル145頁。

*8:ただ、なじみのないジャンルは作品の差異より類似が印象にのこってしまうことも考慮すべきだとも思うし、その意味では現在でも漫画にふれたばかりの読者は同じような印象を感じることはあるだろう。

*9:後に知識の粗雑さや盗作が問題となり、現在は保守的なライターとして知られているが。 唐沢俊一『新・UFO入門』盗作騒動もくじ: 漫棚通信ブログ版

*10:菅氏は後述したリンクの、ノンブル121~122頁。稲葉氏は下記画像。>

*11:『NHKスペシャル』東京ブラックホールⅡ 破壊と創造の1964年 - 法華狼の日記

*12:ノンブル280頁。

*13:ノンブル73頁。

*14:ノンブル76~78頁。ここで菅氏は移動型の貸本屋随行して当時の子供の読書形態を観察しており、貴重な資料として興味深く読んだ。

*15:ノンブル58頁。

*16:ノンブル79頁。

*17:ノンブル80~83頁。

*18:【話題そらし】仁藤夢乃氏、室井佑月氏との論戦から逃亡、「温泉むすめ」叩きに走る。 - Togetter

*19:こちらの書評の冒頭を参照。 https://www2.kobe-u.ac.jp/~kado/sigoto/gojiyama.pdf