法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ジョゼと虎と魚たち』

メキシコへの留学資金をためるため、ダイビングショップでアルバイトをつづける優秀な青年、恒夫。ある日の帰宅途中、坂道で車椅子が止められなくなっている車椅子の女性を救う。
ジョゼと自称する女性は両親を事故で失い、古い家で祖母とふたりぐらしをしていた。祖母はジョゼの相手を恒夫にさせるため高額な時給を提示するが、ジョゼは恒夫を高慢に拒絶する……


田辺聖子の短編小説を原作として、2020年に公開されたアニメ映画。『ノラガミ』のタムラコータロー監督、ボンズ制作のタッグでつくられた。

残念ながら1985年に発表された原作は未読で、2003年に公開され話題となった実写映画も断片的に情報を知っているだけだった。


そこでまず単独作品としての感想になるが、全編シネマスコープで安定した映像が期待以上に良かった。絵コンテをひとりで担当した監督や、画面設計を担当した川元利浩をはじめ、ひさびさにアクションにとどまらないボンズの底力を感じられた。
いくつかデジタル技術でまわりこむカメラワークもあるが、基本的にはキャラクターのほぼ全身が映るフィックスで、奇をてらった構図もほとんどつかわず、それでいて映像として単調ではない。
群衆をすみずみまで生き生きと動かすだけでなく、老若男女のキャラクターデザインを細部まで個性的に区別しつつ、若者ばかりのメインキャラクターと画面に同居しても絵柄に統一感もある。柔らかく強弱をつけたキャラクター作画の描線も、精緻でいて実景のひきうつしではない柔らかい背景も、手描きらしい魅力があった。
劇中絵画に劇中評価くらいの説得力があることも良かった。後で調べるとアニメオリジナル設定らしいが、絵を描く技術が自己評価を高めることが、アニメーションという表現媒体にあっている。


物語は意外なことに、あまり身体障碍者の苦難を描いた作品ではない。
もちろん、現代を舞台として障碍者をメインキャラクターにした貴重な商業アニメのひとつではある。日常的な身体的接触が「健常者」より重大な危険をまねくことや、思いどおりに移動することが微妙に難しい不自由な感覚は描かれる。
しかしジョゼは両親をうしなって祖母とふたりぐらしながら、貧困の苦しみに直面する場面はなく、絵画の才能もある。就職するよう福祉に要求されるが、心理的な困難しか描かれず、事務職につくまでの苦労はいっさい描かれない。
だからといって社会の問題が設定ほどに描かれていない作品とも思わない。映画を見つづけると、一見すると身綺麗で強くて好青年の恒夫にこそ、社会のゆがみが集中していることがわかっていく。
外国の教授から特別に招待され、留学の奨学金をもらえるほど優秀でありながら、恒夫はアルバイトにあけくれなければならない。夕食の弁当を買いなおすこともできない。ジョゼの相手を始めたのは高額な時給を提示されたため。やがて両親が離婚していることも語られる。
映画をふりかえってみると、祖母の庇護で束縛されていたジョゼだけでなく、恒夫の人間関係もさほど広くはない。親しいのはアルバイト先の数人と大学の指導者だけ。目的のため他のすべてを切り捨てる必要があったのだろう。
青年と女性の立場を交換する場所として、補修不足の道路がつかわれているところも示唆的だ。現在の大阪が、享楽的な商業文化は発展できているように見えても、足元の維持がおろそかになっている現実を思い出させる。行政批判を意図した物語というのは深読みだろうが、広い道路でも劣化している現状を作り手が認識していなければ、違う描写が選ばれたのではないだろうか。


いうなれば、これは王子を助けるために犠牲となった可憐な人魚姫の物語ではなく、高慢な人魚姫に助けてもらわなければならないほど崖っぷちに立っていた王子の物語だ。
身体障碍は、余裕がなかった男性と生活に余裕のある女性を出会わせ、金銭と人脈の余裕をもたらす装置として機能している。そして物語が進むとともに関係が深まれば、必要なくなった身体的な優劣は暴力的にとりはらわれ、男性はさらなる苦難に直面する。
それゆえ女性が男性を救う虚構がクライマックスに配置されているのだろうし、去りゆく女性とともに歩もうとすることが物語の結論になるのだろう。


監督インタビューによると、原作を選んだ後にタイトルの「魚たち」をどう映像化しようかと考え、「ダイビングをする恒夫の夢をどうするかというところから映画の構想をスタートさせました」という。ジョゼと独立した男性側の動機から映画が構成されたとはいえるだろう。
marinediving.com
身体障碍者の女性を主体的に描いた原作を男性側の物語に組みかえたという読みが正しければ、原作の愛読者や当事者から異論が出ることもさけられないとは思う。
実際に公開当時、原作や実写と比較してアニメでは障碍者の苦難描写が後退していることが、当事者団体の代表から厳しく指摘されていた。
bunshun.jp
しかしアニメに親しんでいる者として興味深かった指摘は、原作や実写では障碍者の性的主体性や、社会の苦難の象徴たる「虎」が性加害として描かれているらしいこと。
アニメ版についていえば、ただ性加害や性的主体が欠落しているというより、性的に受容される描写そのものを入念に排除しているのではないだろうか。事実として、先入観なく見ていた時点で、現代のアニメとして驚くほど上品だと感じていた。
青年は介護者に近い立場となりながら女性の着替えや下着を目撃することはなかったし、敵意を向けられる一因だろう救出時の身体接触でも明確にプライベートゾーンをさわっている描写はしていない。ダイビングショップの同僚として若い女性も登場するが、水着で肌をさらす描写も上半身にとどめている。
おそらく先行企画として参照されたであろう『君の名は。』や『天気の子』*1が思春期の少年を主人公に選んで、女性の肉体に何度も興味を示させて、下着や乳房の谷間が映し出されることと対照的だ。
男性の性的関心を満たすために、建前であっても女性の性的主体を描くことが悪いわけではない。うまく描写できれば当事者の救いにもなるだろう。しかし日本のアニメではそのような描写がすでにあふれている。
また先述のようにアニメでは物語を動かす主体は恒夫になっている。ならば合意にもとづく対等な性関係を描いても、性的主体として印象づけられるのは障碍者に偏見なくふるまう恒夫だろう。一般的に表現者は見られることで主体となるが、性的関係では見ることで主体となる。
そこでアニメーションという媒体として、性的主体ではなく表現主体としての女性を描こうとしたのであれば、その判断に敬意をはらえる。そう思えるだけの映画だった。

*1:TV放映版の視聴後に映像ソフトも購入して鑑賞したが、『ジョゼと虎と魚たち』とはまた違って、現代の貧困を直視するアニメとして貴重ですぐれた作品だとは思っている。 hokke-ookami.hatenablog.com