法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『聲の形』

母子家庭の石田将也が小学生のころ、聴覚に障碍をもつ西宮硝子がクラスに転校してきた。
硝子を異物として排除する先頭に立った将也は、標的が消えていくと自分が対象になってしまう。
やがて高校生になった将也は、母が西宮家にしはらった和解金を働いて返そうとして、手話もおぼえた。
そして再会した硝子と関係を修復しようとする将也だが、自分の過去や他人の顔を直視することができない……


2016年9月17日に公開されたアニメ映画。山田尚子監督、吉田玲子脚本、京都アニメーション制作という『けいおん!』と同じスタッフ構成で、2時間超で映像化している。
映画『聲の形』公式サイト
原作漫画は、プロトタイプとリメイクの短編ふたつは未読。週刊連載された全7巻は、以前に購入して放置していた1巻だけ、映画の鑑賞後に初めて目を通した。


ゆえに映画だけの感想となるが、これは聴覚障碍者を描いた物語ではない。異物を排除する動きを主導した少年が、その責任をすべて負わされて居場所をなくした後の物語だ。
西宮硝子は、どのような敵意や悪意が向けられても、感謝や謝罪を返そうとする。聖女のような障碍者の位置づけは、意外なほど平凡で時代錯誤といっていい。
商業アニメにおける聴覚障碍は、たとえば大地丙太郎監督による2004年のオリジナル作品『まかせてイルか!』*1というすぐれた先行作品がある。
まかせてイルか!-irukaya.com-
あくまでバイタリティあるマイノリティという類型ではあったが、その力強さは生きぬくために獲得されたものとも示していた。その意図を監督もツイートしている。

そうしてさまざまな人々がくらす社会をコメディチックに描きつつ、社会的な弱者に負担が集中する問題を実直に描いてみせた。それが制作会社の作品に字幕が収録される慣例にもむすびついた。


だから『聲の形』を評価するならば、障碍の実態が描かれているためではない。あくまで聖女のような障碍者は起点であり、聖人ではありえない主人公の回復劇が主軸だ。
たぶん映画関係者も自覚的なのだろう。公式サイトのイントロダクションを読んでも、あらすじ説明から硝子の設定はまったくわからない。聴覚にまつわる記述は「伝えたい“こえ”がある。聞きたい“こえ”がある。」という抽象的なキャッチコピーのみ。
イントロダクション | 映画『聲の形』公式サイト
原作では1巻かけて描いた小学校でのイジメも、映画は冒頭で短く処理している*2。他者に向けた悪意が主人公に返っていることを、まったく同じ風景で反復していく。
イジメにはしる心理描写が少ないのは尺の制約もあるだろうが、ところどころイジメの結果をふくらませている。特に補聴器を引き抜いたことによる流血は、原作より刺激的に見せている。
大人たちの嫌悪感も弱められ、子供たちだけで傷つけ迷っていく物語が抽出された。クラスの異物へ責任を負わせる教師は問題を放置しただけに後退し、イジメ発覚前の西宮母とのトラブルも描かれない。


映像作品としても、聴覚にまつわる描写は、予想より無頓着なところがあった。
たとえば、打ち上げ花火の描写で、光と音が同調してしまっている。硝子も響くような音は感じる場面なのだから、光から音のイメージを感じる描写ではなく、光から遅れて音が聞こえる音響演出にしてほしかった。
逆に視覚的な演出は強調されているようだ。将也が他人の顔を直視できない問題は、第4話から出てくる原作と違って冒頭から執拗に描写され、精神に起因する視覚障碍の域に達している。
将也が盲をひらかれる場面も、実在感ある雑踏を見せつつ、ざわめきよりも華々しいBGMが先に鳴る。京都アニメーションらしく手抜きせず群集を手描きで動かして、描写としては印象深いが、映画らしい音の厚みは感じなかった。


そうして将也という少年の迷走を描く物語として見れば、それなり以上に奥行きある構成になっている。
少しずつ再生していった人間関係が、甘く過去に向きあっていたため破綻するという展開もきちんとある。ひたすら将也に赦しを与えていく硝子も、それだけで救いをもたらすことはない。
おそらく原作の見せるべき部分をきちんと引きだした作品なのだろう。硝子が本心では将也を嫌っているような逸脱はしないが、1巻を見比べた範囲では理解できる改変におさめている。単独で見ても、印象的な冒険こそないが*3、映像のどこにも隙はない*4


ただやはり、硝子のありようが特異であることは、たったひとことでいいから、どこか劇中で示してほしかった。
たとえば、周囲に感謝や謝罪ばかり返す性格は、そうしなければ社会から排除される恐れから生まれた可能性を登場人物の誰かが指摘してもいい。山田監督のインタビューにも、他人を気にしているという原作者の見解がふれられていた。
「聲の形」山田尚子監督に聞く。気をつかったり同情したり、何なら可哀想だと思ったりするのは大間違いだ - エキサイトニュース(1/5)

原作者の大今先生からは、周りのことをすごく気にして、自分はこうあるべきだということをすごく考える子だとお聞きしたのですが、それにプラスして本能で動く部分もあると思うんですよね。

尺に余裕がないことはわかるが、おだやかな正論で切りこむ真柴智という少年が、亀裂が入る場面で重ねて指摘するくらいはできるだろう。映画の智による批判は短く切り捨てて終わり、空気を読まない正論が場を壊す描写として弱かったし、将也も感情で反発してすませることができた。反論できない正論をぶつけてこそ将也を追いつめつづける描写になるわけだし、出番が少ない智の存在感も増すだろう。
もちろん、必ずしも人格が社会によってかたちづくられるわけではない。背景を推測すること自体が個人の尊厳をそこなう危険性も留意すべきだ。そのうえで将也に想像力が欠けているという指摘はできる。相手が本当に聖女であっても、甘えることへのためらいは持てるはずだ。

*1:もともと監督原作によるアニメ雑誌連載漫画で、後に監督自身が自主制作して短編アニメ化した。

*2:時間をたしかめながら鑑賞したわけではないので、実際の時間配分は不明であり、あくまで体感的な記憶だが、描写量が少ないことは事実。

*3:主観映像の背景動画は、もう少し長くても良かった。

*4:目玉焼きの表現は同期の『君の名は。』より良い。