法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ドラえもん』の映画制作に見る、ビキニアーマーと創作をめぐる戦い

ファンタジー作品の古典的な類型として、実用性を感じさせない「ビキニアーマー」という服装がある。小宮友根氏*1の記事を発端として、昨年末に話題となった。
炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根,ふくろ) | 現代ビジネス | 講談社(1/9)

マンガやアニメ、ゲームなどでは女性の衣装ばかり露出が多いといったことがあります。衣装でいえばいわゆる「ビキニアーマー(ビキニタイプの鎧)」はその古典的な例ですが、まったく機能的ではないですよね。

その類型が古臭いものとなった時期について、id:KoshianX氏は1980年代なかごろからと主張していたが、自身で出した具体例は1990年代だった。
社会学者とキレンジャーの錯誤 - 狐の王国

1992年に発行された「スレイヤーズすぺしゃる ナーガの冒険」ではビキニアーマーを着た白蛇のナーガという人物の時代錯誤というか狂乱っぷりが笑いたっぷりに描かれている。

対して私は、むしろ1980年代は代表的な作品のひとつが生まれたりと、まだ表現としてすたれていなかったのではないかというエントリを書いた。
「ビキニアーマー」という表現ができた時代を、『Fate/Grand Order』のキャラクターで反証できるとは思えない - 法華狼の日記

異世界召喚ファンタジーを、作りこんだビジュアルでシリアスに展開したOVA幻夢戦記レダ』が発売されたのは1985年のこと。代表的なビキニアーマーとして知られている。

ただ、私は上記エントリを書いた時点で、ビキニアーマーに類するデザインへの批判が物語にくみこまれた古い作品をひとつ知っていた。初出は1979年と、1992年よりずっと早い。


それは『ドラえもん』第20巻に収録された短編で、サブタイトルを「超大作特撮映画「宇宙大魔神」」という。

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簡単に映像の合成ができる秘密道具をつかって、のび太ドラえもんは映画を撮ろうと企画する。しずちゃんを専属女優にむかえ、出木杉が書きためていた創作シナリオを採用。
見せ場の多い特撮作品をつくるため、機材などは秘密道具を活用し、友人たちを俳優として集める。そうして子供たちが制約のなかで工夫する楽しみに満ちた物語だ。


問題のビキニアーマーが出てくるのは、スネ夫がデザインした少年レインジャー制服をおひろめする場面だ*2

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いかにもパルプマガジンに登場しそうな露出度の高い制服を着せられて、しずちゃんが激怒する。むろんフェミニズム描写と呼ぶほどではなく、あくまでエクスキューズを入れた性的サービスにとどまるとはいえるだろう。
しかし、作者の意図はともかく劇中の女性が自身で選んだ服装が嘲笑される『スレイヤーズ』と違って、男性に押しつけられた役割を女性が拒絶する構図が明確になっている。創作をあつかった物語という枠組みゆえか、ずっと自覚的な描写ができている。
冗談めかした表情*3スネ夫が釈明していることも注目したい。反発されることを予測していただろうし、だからこそ類型をふまえただけだと釈明して、自作デザインそのものの良さを主張することはない。
何が悪いのかわからないのび太の表情も味わい深い。何も考えずに消費するだけの受け手は、当事者の反発それ自体が耳をかたむけるべき批判ということを理解できない。もちろんここでののび太は作り手のひとりであり、しずちゃんを巻きこんだ責任者でもあり、他人事のような態度が許される立場ではない。本当にそういうとこだぞ。
最終的に男子制服と同じデザインラインの女子制服を着たしずちゃんが、特に賞賛などしないことも印象深い。激怒した結果で勝ちとった修正に、妥協するように許容するだけ。不公平が解消されたことは喜ぶほどのことではない。現実にもよくありそうな光景だ。


しかし上記のトラブルは修正で対応できたように、しずちゃんの反発は映画制作を困難にするような制約ではもちろんない。設定的な意味もなくデザインラインの統一感を崩しては、作品の完成度が落ちただけだろうし、物語の緊迫感も薄れただろう。
事実、しずちゃんは戦闘中に拉致され、敵に拘束されているところを仲間に救出されるという役割りは、反発もせず熱心に演じている。戦闘のなかで敵にたまたま選ばれたという展開ならば、古典的な性別役割におさまっても、物語として違和感はないわけだ。


作品を壊しかねない制約としては、しずちゃんの反発よりもドラえもんの強権が深刻だった。機材を用意して制作の根幹をにぎる製作者として、無理やり主演を勝ちとってしまう*4

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自身が画面で活躍することを優先して直後のトラブルを看過してしまったと思えば、あらためて育児ロボットとしてのポンコツぶりを感じざるをえない。
とはいえ、子供たちの創作活動をささえて、制作がとどこおらないようVFXプロデューサーらしい助言をつづけているだけ、ドラえもんが作り手としてがんばっていることも間違いない。


表現を制約するものといえば、やはり暴力こそが大きな要因のひとつだろう。
専横を予想されて撮影に呼ばれなかったジャイアンが、乗りこんできて出番をもぎとる。悪役しか残っていないと正直に説明することもできず、うまく騙しながら撮影することに*5

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のび太たちは二重構造のように制作をつづけていく。合成とモンタージュを活用して素材が完成品となっていく面白さは、文字通り映画的といっていい。この手法は現実においてもドキュメンタリーやゲリラ撮影で見られる。


ちなみに出木杉はオリジナルシナリオを提供するにとどまらず、プロダクトデザインからプロップメイカーまで担当して、撮影ではディレクターとして演技指導。
つまり制作の全体を主導する立場にあったわけだが、けしてスタッフを支配しようとはせず、作品を完成へみちびいていくため妥協と調整に追われつづけた*6

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そして作者の藤子・F・不二雄は、この短編を発表した1979年、アニメ制作会社に懇願されて自作の長編映画化に着手。それが現在につづく人気シリーズの第1作となる。

初期構想では出木杉も登場していたが、万能すぎて他が活躍できないため最終的に出番を削除し、ひとりひとりが見せ場を分担する長編をつくりだしたという。
また、同じ秘密道具をつかった性的サービスは完全な事故の結果として描かれ、敵はしずちゃんだけでなくジャイアンスネ夫も拉致して、複雑な関係性を描いていく。
同作者が同時期に発表した作品だからこそ、共通点と相違点の背後に試行錯誤が感じられる。読み比べると面白い。

*1:はてなアカウントはid:frroots

*2:182頁。

*3:ここで、「ネタ」だから許してほしい、というメッセージを読みとることは難しくない。

*4:181頁。

*5:188頁。

*6:187頁。