法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

そして盗作怪獣だったゴジラはオリジナルと出会った

1954年の映画『ゴジラ*1は、同年に起きた第五福竜丸事件の便乗作品である。原型となる様々な企画が先行してあったが、事件をきっかけとして実際に映画化へ動くこととなった。
そして娯楽作品として1933年の映画『キングコング』と1953年の映画『原子怪獣現る』からの影響が色濃いことは論をまたない*2。特に『原子怪獣現る』との類似は、現在ならば盗作あつかいされてもしかたがないほどだ。


低予算で制作された『原子怪獣現る』の興行が成功して以降、核兵器の影響によって巨大生物が暴れまわる映画が続々と作られていったが、たいていは生物の種類で変化をつけていた。恐竜*3が市街地で建造物を破壊するという見所をそっくりいただいた『ゴジラ』は、独自性が少ないといえる。さらに『原子怪獣現る』の原題である『The Beast from 20000 Fathoms』は、『ゴジラ』企画時の仮タイトル『海底二万哩から来た大怪獣』に酷似している。
原子爆弾の実験によってよみがえる太古の恐竜、明確に姿を現さない怪獣でもりあがる恐怖、水際でくりかえされる惨劇、著名研究者の娘と主人公が怪獣調査時に見せる関係、市街地に上陸されても対処できない軍隊、被害を拡大させる放射能、倒すことができる唯一の手段は架空の化学兵器……物語の流れも全く共通している。
比べると、『ゴジラ』の制作者が影響関係を公言している『キングコング』は、全く展開が異なっている。南洋に神秘が残るという幻想を持った冒険、現代まで生き残っていた巨大生物達、その巨大生物を見世物として人間社会へつれて帰る商売人*4、その巨大生物が暴れまわる展開……怪獣の生死が異なる結末を除けば『ゴジラ』よりも『モスラ』が近い*5


キングコング』が『原子怪獣現る』より『ゴジラ』に近い要素といえば、主として特撮の物量と、怪獣への感情移入のしやすさだろう。
『原子怪獣現る』は内容に比して低予算の作品であり、物語を成り立たせる最低限の特撮しか使われていない。人間が怪獣に対していだく感情や対策なども、淡白に描かれている。結果としてモデルアニメーションで動く怪獣の生々しさが強調され、眠りを無理にさまされた哀れな野生動物へ同情を呼んだが、それだけだった。『キングコング』は同じようにモデルアニメーションで動くだけでなく、人類社会へ無理やり連行された悲哀と、美女をはさんだ主人公個人との相対が見られ、共感できるきっかけが多い。しかし『キングコング』と『ゴジラ』とでは、同じきっかけでも恋愛描写の意味あいが大きく違う。
また、『原子怪獣現る』では、怪獣以外に物語を動かす装置として人間同士の恋愛が用いられていた。『ゴジラ』も途中までは似た展開を見せる。だが、孤独な芹沢博士を表舞台へひきずりだすため萩原記者と山根恵美子*6が主人公らしくふるまうのは中盤まで。芹沢博士と萩原記者の立ち位置は、終盤ではっきりいれかわる。
美女をはさむことなく、主人公とゴジラが相対する。戦争で傷つき孤立した者同士として、海中で向きあう。この結末にいたった時、物語面での酷評もあった『ゴジラ』は時事問題の便乗商売に終わらず、時代を超えて評価される文芸性を獲得した。


では、怪獣と主人公が個人として相対する物語に先例はなかったか。
怪獣映画に限らなければ、1931年等に映画化もされた古典『フランケンシュタイン』等がある。しかし暴れまわる巨大怪獣へ共感を呼ぼうとする作品は『キングコング』が起源だろう。『白鯨』を巨大生物を一個の人格としてとらえて闘う物語と解釈することも不可能ではないが、古典映画版もふくめて主流の読解ではないようだ*7
だがキングコング』以上に『ゴジラ』と同じような怪獣への共感をいだかせる物語も存在する。人類社会から離れた海辺で、孤独な男が太古からよみがえった怪獣と相対し、哀切に満ちた別離を迎える物語……そう、『原子怪獣現る』の原作であるレイ・ブラッドベリの短編小説『霧笛』にそっくりなのだ。孤独をかかえた灯台守が実質的な主人公で、より人間社会に近い新任の灯台守の視点で語られるという構成も、芹沢博士と萩原記者の構図へと通じている。


両作品からの映像面の相似も、1955年の続編映画『ゴジラの逆襲』に見いだせる。『原子怪獣現る』と同じく四足歩行で動く怪獣アンギラス、それぞれ登場と退場が雪山を舞台としている怪獣、そして怪獣によって破壊される灯台……
逆に、太古の恐竜が灯台を壊す場面があること以外に、『原子怪獣現る』と『霧笛』の類似点はほとんどない*8。時計台の時報に反応する場面がある『ゴジラ』が、より印象としては近いくらいだ。
むろん、実際に『ゴジラ』の制作者が『霧笛』を参照していたかはわからない。そもそも『キングコング』と違って『原子怪獣現る』からの影響は公式に表明される機会が少ない。しかし制作者の意図がどうであれ影響下にあることは確実だし、完成作品が相似していると評することができる。


影響を受けつつ方向性を変えることを重ね、一周して『ゴジラ』と『霧笛』は相似する物語となった。いったん『原子怪獣現る』で漂白された文芸性が復活したわけだ。それも、ただ滅びゆくものの孤独だけでなく、滅びを生み出した人類の責任などの、新たな要素を加味して。
そして灯台と霧笛に同類を幻視した恐竜という構図は反転し、放射能で被害をもたらす怪獣に超兵器を開発した自身の似姿を幻視する主人公という構図となった。つまり、写し撮られる対象が、人間から怪獣へと変わった。それにつれて怪獣の立場も、説明的な名称*9や名も無き恐竜*10から、ゴジラという固有名詞を持つ存在へ変わり、独自のキャラクターとして確立した。
全く先行作品の影響を受けない物語は、現代には不可能だ。たとえ深い影響を受けても、ただの盗作に終わらせない独自の発展をさせられたならば、誇っていい。むしろ先行作品に敬意をはらい、全体の活性化をはかるだけの独自性を加味できるよう努力するべき、という態度で創作に望むべきだろう。
粗筋だけなら剽窃と呼ばれてもしかたがない『ゴジラ』だが、完成した作品はオリジナルの価値がある。単なる巨大生物を超えた怪獣を物語の中心にすえる映画群の、確かに起源となったのだ。

*1:1984年にリメイクされた作品と同名だが、このエントリではシリーズが始まった1954年版の初代のみについて言及する。

*2:たとえば『映画秘宝 あなたの知らない怪獣マル秘大百科』の切通利作コラムが同じ視点で書かれている。

*3:ゴジラは海棲爬虫類と獣類の中間的な生物と作中で語られているが、デザインは恐竜寄りだろう。

*4:正確には『モスラ』では小美人が連れ去られ、モスラが追いかけるという構図。ヒロインに執着するキングコングとの類似性が強い。また、漂着した巨大な卵を見世物として移動する展開が『モスラ対ゴジラ』にある。

*5:ちなみに『キングコング』の原点といえる『ロストワールド』まで視野を広げれば、モスラ同様に海へ去っていくブラキオサウルスを見ることができる。より具体的な感想はこちら。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20100529/1275146253

*6:専門家としてゴジラの分析を行う山根博士の娘。山根博士と芹沢博士が師弟関係にあった縁から、戦争前は婚約関係も結んでいた。

*7:寄寓にも1956年版はブラッドベリが脚本を手がけている。

*8:もともと『原子怪獣現る』は『霧笛』と関係なく企画された作品であり、類似した場面が盗作とされることを恐れて映像化権を買ったという制作過程だったらしい。しかし映像関係の仕事もしていてハリーハウゼンと友人だったブラッドベリは、映画に対して複数の助言を行ったという話もある。古い映画のことなので、判然としない部分が多い。

*9:さらに感情移入しやすい巨大猿を描いた映画『猿人ジョー・ヤング』もあるが、擬人化による命名という感が強い。作品自体も『キングコング』の主要スタッフが参加しながら、猿がさほど巨大でないこともあってか、怪獣映画としての知名度は低い。

*10:『原子怪獣現る』の怪獣も、基本的に作中では恐竜としか呼ばれない。