法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』

ある夜、天体観測をしていたムサシ少年の望遠鏡に「ウルトラマン」が映りこむ。それはバルタン星人と戦いながら地球へ来たウルトラマンコスモスだった。
そしてムサシ少年は森の中で弱ったコスモスを助け、その手に乗って空を飛ばせてもらう。しかしムサシ少年の言葉を誰も信じようとはしなかった……


TVシリーズウルトラマンコスモス*1の前日譚だが、TV放映開始より遅れて2001年に公開された。

監督と脚本が飯島敏宏で特技監督は佐川和夫と、シリーズ初代のスタッフがメインとなり、バルタン星人をほりさげるドラマが展開された。謎の通信がおこなわれている周波数の説明でSETIを引用し、そのSETIがバルタン星人の襲来してきた理由として効いてくる構成などは悪くない。
舞の海の棒読みとオーバーアクトを除いては、まあまあ俳優陣も悪くないし、手堅い児童向け特撮作品ではある。森林でのコスモスとムサシ少年の邂逅は、霧の中に巨大な顔だけがある構図や、精緻な合成などで、現在でも許せるクオリティはある。
しかし全体としては、悪い意味で時代遅れだった。前年の山崎貴監督による映画『ジュブナイル』と比べて、子供の描写も特撮の迫真性も劣っていた。


致命的な問題として、劇中の「ウルトラマン」と、科学調査ボランティア「SRC」の位置づけが、映画を見るだけではさっぱりわからない。
誰もムサシ少年の目撃談を信じないのに、誰もが「ウルトラマン」の名前を知っている。しかし劇中劇のキャラクターというわけでもない。設定としてはサンタクロースのような位置づけらしいが*2、そうと示す描写が劇中のどこにもない。
ムサシがなぜ巨人を目撃してウルトラマンと考えたのかもわからない。人間態をもたないウルトラマンという珍しさはあるのだから、謎の巨人*3と子供の交流という発端からきちんと描けば、独自の見どころになったろう。しかしコスモスが言葉を使わないので、ムサシがコスモスを理解する描写が読心術のようになってしまい、「ウルトラマン」という名前も読心術によるものだと私は誤認してしまった。
そもそも地中に怪獣が眠っていたり、バルタン星人がやってくる世界なのに、ウルトラマンだけ実在しないと考えている社会が想像しづらい。ウルトラマンをETあつかいする防衛組織「シャークス」の態度こそ、劇中では批判されているが一貫性を理解はできる。そうした組織があるのだから、人知を超えた存在はあらかじめ劇中社会で想定されているはずだし、“ウルトラマン”でなくても謎の巨人はいたと解釈されるのが自然だろう。
シャークスはムサシ少年の主張を調査してから否定するが、そこでわざわざ高圧的な態度をとる*4。それでいてムサシがウルトラマンにもらったという石を持ちだすと、それを無理やり奪って検証しようとする。その場その場でムサシが嫌がる行動をさせるため、ムサシの言葉を信じたり信じなかったり変わりすぎ。
一方でムサシの味方となる「SRC」だが、普段は別の職業をもっているボランティア団体という設定は悪くない。優しい教師が正義の一員というシチュエーションは、変身ヒーローの変種として楽しめる。しかし制服を着ているためボランティアらしさが弱まり、統制的なシャークスとの対立性も弱まった。
SRCが装備品や技術力でシャークスを上回る設定も不思議。変形合体する航空機と、それを離発着させる基地まで持っていては、ボランティア組織らしさがないし、数少ない隊員が普段は教師をしている説得力も欠ける。TVの前日譚なのだし、組織の移動範囲はひとつの町で終始しているし、この映画の時点では小規模組織にとどめておいても良かった。あるいは安っぽい部屋の奥に巨大格納庫があるギャップを優先して、組織の背景は濁すべきだった。
SRCは行動基準もよくわからない。地底からあらわれた怪獣*5を、航空機のアームで殴りつけて気絶させ、寒くして眠らせてから地中に埋めなおそうとする。できるだけ怪獣を殺さないという倫理観はいいとして、なぜわざわざ近隣住民のいる古墳跡に戻すのか。人間だけでなく怪獣の安全を考えても、別の場所に移すべきといった検討をなぜしない。
巨大なボクシンググローブをつけたアームなら怪獣を殴っても傷つけないらしいことも、民間のボランティアが技術力で防衛組織を超える御都合主義が鼻につくし、舞の海が怪獣に感情移入するギャグも押しつけがましい。それに危険な相手でも排除しないドラマを見せたいなら、相手の危険度が小さいことを前提にして登場人物を行動させてはダメだろう。相手の危険度をおしはかる過程がほしいし、好みとしては危険度が大きくても排除しないだけの思想を確立してほしい。
御都合主義はバルタン星人に対しても変わらないどころか、もっとひどい。いきなり航空機から巨大スピーカーを出して、子守歌を流して眠らせる。巨大異星人が日本語の子守歌で眠るという伏線はどこにもない。見守る住民も斉唱するが、いつからミュージカル映画になった。しかもそれで作戦が成功する。暴れていても子守歌だけで眠らせられるなら、たしかに異星人も脅威にはならないだろうが、せめてその作戦を選ぶ葛藤か覚悟くらいは描くべきだった。
そしてシャークスは、SRCが動きを止めた相手を攻撃して覚醒させてしまう。主人公側を正しく見せるために対立者を愚かにしすぎて、どちらの組織もバカに見える。登りやすくするため踏み台をへこませては、踏んでも低くなるだけ。シャークスがそうだし、対処しやすい怪獣もそう。


ちなみに数年前の『ウルトラマンオーブ』も、ウルトラマンの位置づけはよくわからないところがあったが、人間組織とは離れて行動しているから、疑問をおぼえても物語を追う障害にはならなかった。防衛隊の出番の少なさも、民間の報道組織を視点にしているから違和感を生まない。
以前のエントリで書いたとおり、性質が異なる組織にあわせて外見や機動性を変えて、なおかつ対立をつづけながら協力もつづけるという現代性があった。
『シン・ゴジラ』で怪獣を戦災にたとえた台詞があると聞いて、なぜ最初から天災にたとえなかったのだろうと思っている - 法華狼の日記

個々に妥当性がありつつ相互に衝突する意見にひきさかれ、じわじわと被害を増やしつつも、ひとつの意見にすべてを賭けて破滅することはない。それが現代社会というものだろう。

自衛隊平和団体も極道も労組も、思想的に対立しながら、直面した災害には呉越同舟のように末端で協力していく。それで友好的になるかというと、災害から離れれば対立をつづける。

主人公組織を小規模な報道組織にして、公的機関のビートル隊と思想をたがえながら必要に応じて情報を融通する。ジャーナリズムの描写そのものは特に現代的ではないが、断片的な描写をとおすことで地に足がついた防衛隊を描けていることには感心している。

そういう意味では、シリーズが時代をへて設定を洗練させたことが確かめられる良さはあるかもしれない。……今となっては、だが。

*1:なぜタイトルを「ウルトラコスモス」にしなかったのかとか、主演俳優のトラブルで放送が混乱したとか、硬軟の問題が印象深い。

*2:Wikipediaでは出典なく記述されているが、助監督からそう説明されたというエキストラが個人ブログにコメントしていた。『ウルトラマンコスモス』の世界は?: FULTRAの星より愛をこめて

*3:実は前半の会話は「光の巨人」あたりに置きかえても成立する。ウルトラマンという名称は通信解読後に使いはじめれば物語が成立する。

*4:ここでムサシの父がフォローしようと、当日が悪天候だったことで夢と現があやふやになっているといい、守ろうとしたムサシに嫌われる展開は悪くない。

*5:これをバルタン星人が操る意味も、物語において明確ではない。