法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

その記述は必要ないと大屋雄裕教授につたえたい

専門的な書籍から引いた用語解説が後年に不正確とされた時、大学をやめる必要があると主張する人々 - 法華狼の日記
上記エントリに「大学人」というハンドルからコメントがついた。その一部を引用する。

(「ちなみに〜」からの別件を持ち出しての)大屋氏批判も、こうしたブログ記事にありがちな、「議論」の批判より(自分の気に食わない)「人」の批判に過ぎないものになっていて、少なくとも引用されている議論への批判にはなっていない的外れなものになってるように見えます。(この点、学問的な議論と作法を知らない素人ブログの決定的な差な気もしますが、深入りしません。)

一方、大屋教授は「脅迫に屈しないというのは言論で闘うことが前提」「脅迫に言論で闘うというのもよくわからない」どっちだよ - 法華狼の日記で応答したのとは別エントリで、下記のように書いていた。
確信的誤読犯対応(2・完) - おおやにき*1

本年8月中旬に法華狼氏は複数回私のtweetを踏まえてエントリを書き、ある意味非常に誠実だと認めるところであるが、はてなIDコールを通じてmentionを飛ばしてこられた。まあしかし正直に言うとその内容とかレベルはごく低いもので、以前にblogでやりとりした際の印象からもまともな対話にはならないと思ったのでごくダメな点のみを適当に指摘し、途中からは見るのも止めてしまった。なので上掲8月18日付のエントリも読んでおらず、昨日初めて目を通した。

もちろん大学人氏の責任を大屋教授が負う必要はないが、下記の8月18日付エントリを読んでいなかったのならば、そう書けば良かっただけの話ではある。
きちんと明記したことを気づいていないと反応されて困惑した - 法華狼の日記


なお、大屋教授は以降に自身のツイートを解題しているが、そもそもツイートした文脈を無視するという内容だった。

一読してわかる通り上記は(A)マスメディアと(B)tweetを対比しているものだが、さらに分けて書けば(A1)「証言をもとに事実の存在を伝える」(A2)「有料の」(A)マスメディアと(B1)「事実の有無にかかわらず成立する論理的関係に言及する」(B2)「無料の」(B)tweetを対照しており、かつ(A1)―(B1)・(A2)―(B2)を対比するという構造になっていることがわかる。

「残念な人たち」という評価が誰に対してなのか、今回の大屋教授のエントリだけではわからないだろう。
発端は、私の8月16日エントリから引用した[twitter:@a1675ka]氏の下記ツイートだ。

もともと私が8月16日エントリで、従軍慰安婦報道における朝日新聞記者の責任と、ツイッターにおける大屋教授の責任を比べたのだ。それも全体を比べたのではなく、それぞれ具体な記事や発言を引いて、重みを比べようとした。なおかつ一般論としてツイッターより新聞社の責任が重いという考えがありうることまで明記した。
それに対して大屋教授が「有料のマスメディア」「無料のtweet」と具体性を欠いた状態で比較をおこなった。だからこそ私は8月18日エントリで、そうした一般論は先に私が明記したと反論したのだ。それに対して大屋教授が一般論を重ねて説明しても意味がない。
つまるところ、私が8月18日付エントリの末尾に書いたことを再掲すればすむ話でしかない。

私が書いたことをなぞりながら、自分が思いついて相手が気づいていないかのようにアピールするのは、自身の読者をも馬鹿にする行為だろう。

せめて報道の後で入社した若手新聞記者の報道に対する責任と、大屋教授が操作しているはずのツイッターにおける大屋教授自身の責任という比較でないと、第三者には文脈が理解できないだろう。


あと、もうひとつのツイートにまつわる大屋教授の主張だが。

記者が「就職したのは本人の選択」かどうか確定できないって君がたの世界では生まれながらの身分門地で新聞記者になったりならなかったりするの?

全ての人間が本人の責任で仕事についているとは、一般論としても考えにくい。
ちなみに私が「現実に存在しない記者」と表現したのは、とあるツイートで紹介された、東京スポーツ記事に登場した匿名の朝日若手記者のこと。そのツイートで紹介された朝日新聞の主張が実在しないことも具体的に指摘した。「君がたの世界」といわれても、よくわからない。

*1:太字強調は原文ママ