法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『カンビュセスの籤』を読む

TVアニメ『プラネテス』後半の展開一部と、藤子・F・不二雄『カンビュセスの籤』『宇宙船製造法』『マイ・シェルター』をネタバレしているので注意。


「残酷な現実」の内面化、あるいはオメラスの発掘 - 過ぎ去ろうとしない過去

で、「世の中の残酷さを理解している俺ら」と「バカな女子大生」の境界は、彼らにとってはイニシエーションとしての教育だったりします。今回の事例に限らず、教育者ってトリアージみたいな「冷たい方程式」

http://tinyurl.com/6p99cr

みたいな題材、好きですよね。

あまりトリアージ論争とは関係ないが、『冷たい方程式』も悲劇の話であってトリアージ肯定の話ではないと思う。
むしろSF史から見れば、一つの状況設定を発見もしくは発明して1ジャンルを作り上げた小説、と考えていいのではないか。『タイムマシン』や『我はロボット』と同じように。SFで注目されるべきは必ずしもドラマなテーマではない*1。だからこそ『冷たい方程式』にオマージュをささげた「方程式もの」にはトリアージを否定する作品も多いわけだ。
一例として、NHKの人気TVアニメ『プラネテス』は、アニメオリジナルストーリーで様々な極限状況が展開され、狭義の「方程式もの」に入る話もあった。しかも「冷たい方程式」を精神的に解いた回と、物理的に解いた回がそれぞれ存在するのだ。方程式に多様な回答を示したことが、群像劇としての『プラネテス』を支えた。主人公2人がそれぞれ別の「冷たい方程式」に直面し、異なる答えを出すという対比にもなっていた。

そういう人がヲタになると、たとえば『イリヤの空』みたいなのを絶賛したりする。「この残酷さにこそリアリティがあるのだ」って言って。

残酷さの話では、どちらかといえば……十数年も前に読んだきりの記憶だが『たったひとつの冴えたやりかた』あたりが『イリヤの空、UFOの夏』に近いと思う。
なお、露悪的な残酷こそ現実という考えは、物語の御都合主義を軽減するため不都合な状況も描写しておく技巧に通じるところもあるので否定はしにくい。……なにぶんにも『イリヤの空、UFOの夏』は不都合な展開がわざとらしいほどで、最終巻あたりでは逆に現実味を損なっていたが……


さらに本題から外れて「方程式もの」について考える。
カルネアデスの舟板という故事が存在することを思うと、再発見と呼ぶべきかもしれない。
カルネアデスの舟板は現実の司法でも「緊急避難」の題材として扱われている。そしてカルネアデスの舟板を題材とした作品を並べると、トリアージを肯定しない作品群の数はさらに増える。
記憶に強く残っているものでは『沈黙の艦隊』の一挿話がある。政治家4人の公開討論で、救命ボートで脱出した人々の中に致死性の高い伝染病患者がいたという仮定話をふられ、各々が個々の考えを述べるというもの。単純に4通りでなく、政治家自身が患者である場合と患者でない場合もそれぞれ答えさせていて、微妙に芸が細かかった。もちろん仮定の問いという形式自体への批判も描写された。
カルネアデスの舟板は同じ講談社のマンガ『金田一少年の事件簿』でも事件背景に使われていた回がある。主人公の金田一一による答えが、『沈黙の艦隊』の最も青い政治家と同じだったことが、個人的に記憶に残っている。


そして命を選択するという理論と実際の落差を経験で語るDr-Seton氏のエントリを見て、藤子・F・不二雄『カンビュセスの籤』を思い出した。
いのちの奪い方 - Dr-Seton’s diary
『カンビュセスの籤』は藤子F短編らしく精緻な作品だ。単純化された状況設定から念入りな極限描写と複雑な人物関係が展開する。
紀元前にて、主人公の男は、籤引きにより死を宣告される。その肉体を、ともに砂漠でさまよい飢える戦友達の食糧として提供するために。死を目前にした男は拒否し、当てもなく砂漠を逃げだす。
常識的に考えれば、逃げた男は飢えたまま砂漠で死ぬだけだ。残された飢えに苦しむ仲間達も、再び仲間殺しと食人を行おうとするかもしれない。しかし人間として男は逃げ、たまさか助かった後に仲間の非人間性を厳しく批判する。……しかし男自身も選択される前までは、誰かを切り捨てる選択に同意していたらしき描写がある。それが何よりも残酷だ。
助けてもらった男は、ひとり孤独に生きる女から、残り少ない食糧を提供される。逃げた先は、滅亡を目前とした未来の地球だった。食糧は女の叔父を機械的に処理したミートキューブ。世界に残った数少ない人類として、異文明へ助けを求める技術が、結果的に男を呼び寄せた。
地球上で誰か一人が生き続け、異文明からの助けを待たなければならない。男は女にどちらが食糧になるかの籤を選ばされる。しかし男は選んだ籤を見もせずに放り捨て、女の残酷さを批難し、住居の外へ逃げ出した。
……くりかえしトリアージにより男は「切り捨てられるべき人間」となり、その度に逃げ出す……
しかし逃亡の果てに世界の滅亡を認識し、選択肢の無さを悟ったと男は語り、女の元へ戻った。自らの肉体を食糧として提供するために。だが、女は籤で食糧になると決まったのは自分だと告げる。女の犠牲を拒否する男に、籤は絶対だと女はあっさり答え、自らの肉体をさらす……
女を前に立ちすくむ男で、物語は終わる。本当に籤で選ばれたのは女か、男を地獄へと導いた責任を感じた嘘か……様々な葛藤をはらんだ結末は、最後の一頁で急激に立ち昇る濃厚な性の匂いもあいまって、異様な背徳感があった。
だが、トリアージという視点から物語を読み直すと、重要なのは女の真意ではない。もちろん当たり籤のゆくえでもない。読むべきは、切り捨てられる立場を重ねて経験した者が、切り捨てる立場になった時の態度だった。今回のトリアージをめぐる論争を見ていて、ようやくこの視点に気づいた。
だから、男が立ちすくむ絵で物語は終わったのだ。『カンビュセスの籤』という題名もまた、男の行う選択を暗喩していた。


さて、『カンビュセスの籤』で一つの絶望を描いた藤子・F・不二雄は、やがて『みどりの守り神』で極限状況からの再生を描き、『征地球論』で超越した冷徹かつ慈悲の視点へとたどりつく。……それぞれの短編を表題作として、同主題の愛蔵版短編集が中央公論社から出版されていた。同主題の作品を集めると時系列にほぼそうところは、作者の思想変遷をうかがわせて興味深い。
そして『みどりの守り神』は表題作以外でも、『蝿の王』等から題を取ったとおぼしき『宇宙船製造法』で描写される極限状況が素晴らしい。宇宙船が事故で損壊し、主人公の少年少女は銀河の辺境にある地球型惑星に漂着する。宇宙船は損壊して航行不能、通信手段もなく、現地に文明もない。極めて限られた資源、孤立し閉鎖された環境によって、主人公達は必然的に追いつめられていく。正しい手続きにこだわり、自他に厳しくも優しい少年が、やがて理性的に暴力的な独裁者となっていく……その過程は短編マンガの短い描写ながら克明かつ説得力があり、読者は納得せざるをえない。その一方で全ての伏線が収束していき、「冷たい方程式」の前提条件を逆転させるにいたる。主人公の長い思索と決断が実った結末は、深く爽快感にあふれていた。各所で指摘されているが、トリアージを思考停止の道具としてはならない。なお、この作品では意外な指摘がなされ*2トリアージから思考停止への関係性がより深く描写されている。
続いて愛蔵版『征地球論』に同時収録されている短編で、『マイ・シェルター』が極限状況の選択を描いている。マイホーム購入を考えていた主人公。しかし飲み屋で同席した男から、核戦争によりマイホームが消滅する危険性を告げられ、家庭用シェルターのカタログをわたされる。主人公はバカバカしいと思い帰宅しながらも、寝床でカタログを前にして様々な想像にふける。マイホームとしての地下シェルター。狭く暮らしにくい家、限定された食糧、永遠に続く退屈……実現した際の不都合が等身大に想像され、悲劇性などかけらもない。トリアージを想定する描写も、多様性ありながら地に足のついた、一種バカバカしいものとして描かれる。しかし、その等身大の矮小な人間性が、逆に胸を打つ。そして「かわいそう」*3という思いに救いをもたらすため、作者はSFでしかありえない解決法を与える。完全ネタバレなので引用や説明はできないが、そのデザインが示すように架空性を誇張された、現実ではありえない解決法だ。だからこそ、マンガとして描く意味があった。


いったん整理した状況から、多様な視点や選択肢を展開する、それが虚構の価値の一つと思う。つまり結論として、トリアージを題材とした虚構を読みたいなら、藤子・F・不二雄SF短編は必見ということ。

*1:ちなみに『冷たい方程式』を書いたトム=ゴドウィンも、脱出不可能な惑星から架空性の高い方法で生還する人々を書いた『発明の母』なるハッピーエンド作品も書いている。

*2:愛蔵版385頁が該当。

*3:友人の家族を見捨てるという仮定のトリアージを拒否する幼い娘は「メグミちゃん一人にしたら泣いちゃうもん」と理由を答える。他の家族もそれぞれ“深く考えず”にトリアージを拒否する。なお、家族の言葉は主人公が想像したものにすぎないという、ひねった構造がある。