法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ルックバック』で「怪物」が顔を見せた描写は安易と思ったのが正直な感想

ジャンププラスで公開された藤本タツキ『ルックバック』。藤野と京本、学級新聞に4コマ漫画をのせる少女ふたりをとおして、さまざまな表現と表現者へのオマージュを感じさせる。
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技巧的でいて読みやすい。流し読みでも主人公の心情を追っていけるし、じっくり組みこまれた小ネタを読み解く楽しみもある。
全体としては、いきがる子供を力強く肯定していくところが良い意味で珍しい、と思った。


ただし、中盤でさしこまれる悲劇の「怪物」だけは、あまり作りこまれてないし、その雑さが魅力に転化しているとも言いがたい。古臭く平凡なB級映画のキャラクターイメージを安易に引用しただけに見えた。
そうしたB級映画で登場する「怪物」にしても、まったく進歩がないわけではないのに。たとえば韓国映画では、十年以上前からさまざまな挑戦が見られている*1。偏見を逆用するものもあるし、いったん限界までよりそいながら安易な理解をいさめる作品もある。ある意味で人間誰しも「怪物」化するという導入のものもある。

すべてが成功しているわけではないし、また別の偏見を育てかねない作品も少なくない。しかし、切磋琢磨した先を感じさせるようにはなっていて、そこについては『ルックバック』が遅れている。


もちろん、『ルックバック』において「怪物」を物理的な存在として登場させる必然性もわかる。「怪物」について長々と深く描写しては全体のバランスが崩れかねない問題もあろう。
それでも、もう少し工夫できなかったか、それが無理なら描写を弱められなかったか、とは読んだ直後から感じていた。


好みでいえば、「怪物」の実在性をそぎおとして弱める方向で読みたかった。登場シーンはスリガラスの向こうで実態が判然とせず、全身をあらわしてもフードやパーカーに隠れて顔立ちも輪郭も不明瞭で、あっさり退場して名前も主張もわからないまま……といった展開のように*2
あるいは、「怪物」を一見すると平凡な女性に、具体的にいえば並行世界の藤野と読者に一瞬でも感じさせる姿にはできなかったか。「怪物」を創作をさまたげる異物とせず、ある意味で地続きで、それでも決別しなければならない存在として描けなかったか。そうすれば、直後の展開の驚きも増したかもしれない。
すでに公開されている作品はそれとして、そのようなことをつらつら思っている。

*1:このジャンルで私がよく見ていて具体例を出せるというだけで、他の国のサスペンス映画が劣っているという意味ではない。

*2:殺人者の固有性を黙殺することは、自己主張を目的とした虐殺へ対抗するため、現実におこなわれていることでもある。 www.bbc.com