法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『永遠の0』

百田尚樹原作、山崎貴監督の、架空の特攻隊員を現在の子孫が追う劇映画。金曜ロードSHOW!の本編ノーカット放映で視聴した。
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まず映像について感想をいうと、VFXを楽しむ戦争映画としては、邦画において最上級。戦場の描写にVFXを活用した映像作品は近年の日本でもいくつかあるが、リソースの不足が目立つか、無難な内容にとどまるかだった。
空母の全景で人間が働いている姿を見せたり、空母の舳先で会話したりと、序盤は珍しい絵が多い。戦闘機同士の戦闘も質と量ともに悪くなく、カメラワークもスピード感もそれらしい。
実物大のゼロ戦は、こういう作品では何度も制作されてきたものだが、リベットなどのデコボコ加減がすばらしい。実物大コクピット内部の俳優も、きちんとVFXにあわせた芝居をしている。俳優の衣装なども適度に汚していて、VFXでつくりだした過去の風景になじんでいた。
一方、現代パートは映画としておもしろい絵がない。さまざまな人々に会っては会話をしていくだけで、しゃべっている人間をカメラの中心におくという平凡な構図ばかり。会話内容のつまらなさも足をひっぱっている。もっとも会話場面にかぎると、戦時中のパートも当時らしい芝居になっていなかったが。


次に物語の感想をいうと、ある意味では原作より良かったし、ある意味では原作のダメなところを浮きあがらせていた。
以前にコミカライズ版を主軸として感想を書いたことがあるが、原作やコミカライズは評価できないものだった。
『永遠の0』で広がる視界はゼロ - 法華狼の日記

特攻批判の根底に隊員の悪魔化があるという虚偽。
戦争で相手が兵士ならばしかたないという思想。
誰が戦争をはじめたのかという経緯の無視。
この三つが相互に関連しながら、特攻の問題点を矮小化していく。

上述の欺瞞そのものは残っているのだが、その欺瞞をずっとちいさくして、物語の中心から遠ざけている。


主な改変点はみっつある。パラシュート降下する敵兵を祖父が撃った描写が消えたことと、記者との論争が合コンにおける論争に改変されたことと、結論を完全に投げっぱなしていること。
まず、降下する敵兵がいなくなっているのは、当然の改変だろう。祖父が仲間から嫌われていた一因なのだが、原作の理屈では正当化するには弱すぎるし、撃たれた敵兵が実は生きていて戦後に許される展開も安易。削除せずに映像化するなら、敵兵が戦後も祖父をゆるさず、主人公も祖父の行動に嫌悪感を捨てられない……くらいドラマとしてふみこむしかないだろう。
次に、記者と特攻隊員が論争するかわりに、合コンで主人公が友人と論争する。特攻と自爆テロの何が違うのかと。原作等では何度も出てきて強調される問いなのだが、映画では1度だけ酒の肴で話題になるだけ。そして映画では主人公ひとりだけで反論しようとするものの、うまく説得できないという演出になっている。さらに主人公の調査は現実がうまくいかない現実逃避と指摘され、主人公が去ることで論争は途絶する。
そして、結末において現代の主人公が祖父のゼロ戦を幻視し、そこから調査して出会った人々のさまざまな主張がフラッシュバックし、特攻する祖父の表情を映して終わる。原作では、不調な機体を意図的に交換して仲間を不時着させたという真相が、祖父が特攻した動機のように描いていた。しかし映画では、真相が語られる以前に不時着しなかったのはなぜかと主人公が悩んでいる。そう、不調でない機体に搭乗しても、自分の意思で不時着する選択肢があったはずなのだ。
特攻と自爆テロは違うという主張に説得力がないことや、祖父の物語と主人公の物語に直接のつながりがないこと、原作の結論では祖父が特攻した答えになっていないことを、おそらく制作者は自覚的に映画化している。


もちろん多少の改変で原作の問題がなくなるわけではない。謎が謎として機能せず、答が答として機能しない問題は、そのまま残っていた。
まず前半、祖父が卑怯者だったと多くの戦友から非難されるわけだが、そこで戦わずに生きのこったことが卑怯と当然視されても、それは現代からすると謎ではない。当時の日本は身勝手な侵略をはじめて、それが国際社会で通用しなかったため無謀な開戦をしただけ。そもそも戦うべき必然性も正当性もなかった。
実際に物語において、祖父は家族を愛していたという見解を聞いて、主人公は納得する。それは戦時においては困難であったろうが、現代人なら最初に思いあたるべき回答だ。戦うべき正当性が日本にあったという原作者の思想が、謎ではないものを謎として提示させてしまったように思える。謎かけするならば、祖父が卑怯者だったという評価だけを聞かされて、どのような戦法をとっていたかは知らされないという順序にするべきだった。そこでパラシュート降下中に撃った可能性を想像するような改変があってもいい。
そして後半、家族のために生きたかった祖父が特攻した理由だが、これは先述したとおり原作の結論は答になっていない。祖父の行動は、仲間のための自己犠牲のようでいて、実際は特攻を運命でなく選択したというだけ。映画では部下を無駄死にさせたための自罰的な特攻のようなニュアンスが濃くなっていたが、はっきりしない。死者の真意を知ることは不可能だという表現であれば誠実だが、それならばいっそ真意を知る機会を戦争がうばったという結論にしても良かったのではないか。


なお、祖父が有名な戦場に何度もいあわせる偶然は、フィクションとしては許容できた。
ミッドウェー海戦における時系列のおかしさは*1、フィクションであるからこそ超人化が露骨すぎると感じたが。