法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『まんが トキワ荘物語』

 手塚治虫の主導した漫画誌『COM』で、1970年から各漫画家がトキワ荘時代をふりかえった競作連載。2012年に新書として復刊された。

 ちょうど半世紀前に複数の漫画家が過去の同居体験を物語化した事例として興味深い。個々の視点や虚構性の違いから、多角的に歴史をとらえる面白さと難しさを感じさせる。


 しかし掲載雑誌の制約を考慮しても、当時を物語化することにためらいが見られないことも印象深い。あまり尾を引くような確執や衝突がなかったおかげだろうか。
 各漫画にも描かれているように、精神的支柱であった手塚治虫は新人漫画家と入れかわるように出て、新漫画党をひきいた寺田ヒロオも途中で退去している。
 おそらく現実問題としての上下関係にトキワ荘内で直面する機会がなかったのだ。


 作品はどれも読みごたえあるが、最初に収録された手塚治虫作品が競作の方向性を決定するにあたってよくできている。トキワ荘という無機物のモノローグで*1、舞台そのものの歴史をわかりやすく紹介し、その枠組みのなかで漫画家の出入りを俯瞰的に描いていく。以降の競作は、手塚が用意した枠組みの部品として書籍全体をかたちづくり、オムニバスとしての統一感が生まれる。
 逆に藤子不二雄A作品はスナップ写真の模写をとりこみ、絵日記のように断片的でまとまりのない出来事をつないでいく。実のところ記録性しかなくて漫画として単独では弱いのだが、直前に連載をはじめたフィクション性が高い『まんが道』の、楽屋裏的な面白みがある。
 意外な完成度をもつのが寺田ヒロオ作品で、兄貴分でありながら若い漫画家に追われて鬱屈していくエッセイとなっている。これも『まんが道』の楽屋裏のような面白味があるわけだが、貧しいなかで食材をやりくりする描写に『孤独のグルメ』や『花のズボラ飯』の先駆的な印象があるし、淡々とした苦難のリピートにリズム感があって起伏がないのに読ませる。序盤の苦しみが意外な伏線となったりと構成も無駄なく美しい。
 紅一点の入居者として知られる水野英子作品は、石ノ森章太郎赤塚不二夫と初対面した時の見開きなど、あたりまえだが漫画として純粋に表現がうまい。さらに元気いっぱいの女性が主人公というだけで競作に変化がつくし、あまり語られない女性視点のトキワ荘という面白味もある。他の漫画家が説明的に語る若き赤塚の美青年ぶりが、水野の筆致でようやく実感的に感じられた。石ノ森の姉も、他の男性漫画家からは弟に似ない美しさばかり注目されるが、水野はその優しさなどにも目を向ける。赤塚らがブルーフィルム*2を楽しんでいるため水野を部屋に入れなかった逸話などもある。
 つのだじろう作品は熱血ぶりが面白い。トキワ荘の漫画家と交流がありつつ入居していない距離感のためか、漫画への情熱を叫び、だらけている新漫画党の面々へ落胆する。もちろんトキワ荘の漫画家と深く交流するなかで、全員がすさまじい努力をしていることを知っていく。つまりは下げて上げるオーソドックスな展開なわけだが、そうして各漫画家の両面を見せていく構造そのものの技巧に感心する。
 石ノ森章太郎作品のみ、この競作では観念的で薄暗いつくりになっている。居住時に姉が亡くなったことが影を落としているのだろうが、競作以前に『COM』で連載した『ジュン』が手塚治虫から理解されなかったことを重ねあわせている可能性も感じた。


 他の感想を書かなかった漫画家の作品もそれぞれの興味深さがあるし、二階から放尿するエピソードが違う漫画家から出たりして全体像が少しずつ補強されていく証言としての面白さもあった。
 しかし突出して印象に残ったのは寺田ヒロオ作品だ。同時期に手塚治虫が『上を下へのジレッタ』等で挑戦しつつ失敗した大人向けのドライな漫画を、きちんと完成させている。寺田ヒロオは漫画表現の潮流にとりのこされて反発するように引退したことで知られているが、もし大人向け日常漫画を発表できる媒体が当時から安定して存在すれば、もっと後年まで活躍できていたようにも思えた。

*1:動物ドキュメンタリーの擬人化は感心しないことが多いが、生命をもたない建造物となると意味あいは異なる。体験の漫画化というドキュメンタリーとしての限界を、隠すのではなくフィクショナルな視点で読者に意識させるところが逆説的に誠実と思えた。

*2:DVDはもちろんビデオテープもなかった時代、性的映像の所有はフィルムでおこなわれていた。