2011年3月11日、東日本大震災。福島県にある東都電力の原子力発電所は停電を非常用電源で対処し、一息ついたはずだった。しかし巨大な津波が建物をおそい、非常用電源も飲みこまれる……
東日本大震災の実話にもとづき、2020年3月に公開された劇映画。地上波初放送の金曜ロードショーで本編ノーカットを視聴した。
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原作は、後に米大統領選で陰謀論を公言したことでも悪名高い門田隆将の、2012年出版のノンフィクション。『ホワイトアウト』等の若松節朗が監督をつとめた。
まず、セットや衣装などは邦画としては大規模で完成度が高い。暗所では真っ黒な影を落としてリアリティを出しつつ、劇中のライトを俳優に当てて見やすくしている。単純作業がつづく場面で安易にBGMを多用しない。俳優に防護服を着せて顔を隠すことをためらわない。そうしたディテールは全体的に良かった。
しかしVFXは期待外れ。やはり邦画としては精緻で、見てて冷める場面はないのだが。『シン・ゴジラ』等のミニチュアで活躍する三池敏夫が特撮監督をつとめながら、描写にフェチズムが足りない。たとえば3DCGの津波は悪くないが、波が自動車にかぶる寸前にカットが切りかわる。せっかく作ったミニチュアの建屋も背景の合成ばかりで、むきだしになった内部構造をなめるように映したりしない。
物語については一長一短。全体像がわからない現場視点での迫真性は水準以上。
ディザスター映画として良くないのが、序盤の説明不足。本編ノーカット放映でなければプロローグが省略されたのかと思っただろう。
冒頭からいきなり海底地割れが描かれ、原発の建物内ですぐ地震が描写され、さらに津波が襲ってくる。核燃料や制御棒などは義務教育でも習うだろうが、「イチエフ」や「二エフ」といった固有の通称や、非常電源が津波の影響を受ける位置にあることや、水素爆発が起きるメカニズムなどがきちんと説明されない。知識のない観客には、何を目的として登場人物が行動しているのかよくわからないだろう。
もちろん観客の興味をひくために事件から導入することは定石だ。しかしこの映画で災害に見舞われる舞台は見なれた都市ではなく、一般人は詳細に知らなかった原子力発電所だ。まずは通常の稼働状態をじっくり映し、異変後の描写と対比させつつ、舞台の位置関係や展開の伏線を描写するべきだったと思う。
珍しい情景であればそれだけで観客の興味をひけるものだし、日常における現場の生活感も描ける。いくらか事故の知識がある観客にとっては、さまざまな場所の紹介そのものがトラブルの予兆としてサスペンスを感じさせるだろう。
もちろん一定以上の知識を観客に要求する作品もあっていい。しかし下手に知識をもっていると現実との齟齬が気にかかる映画になっている。
特に引っかかるのが、ひとり実名で物語の中心にいる吉田昌郎氏。所長として現場で休みなく働き、現場作業者からつきあげられたり、上層部の無理解や失敗に足をひっぱられたり、対処のさなかに視察にきた政治家に時間を浪費される。
しかし福島原発事故について少し調べた人なら誰でも知っているように、津波対策が必要という2008年の報告をにぎりつぶしたのは本社時代の吉田氏であった。保守点検のコストも削減していたという*1。
非常電源が停止した序盤で津波を「想定外」と評価して、結末の吉田氏の手紙も自然への傲慢が抽象的に語られるだけでは、ただ突発的な天災に対応するだけの奥行きのない物語でしかなく、知識のある観客は見ている途中に引っかかりつづける。
吉田氏が過去に津波対策をおこたったことを描けば、知識のある観客は感心しただろうし、むしろ映画の味わいが増したのではないか。悔恨を動機として全力をつくす物語も、英雄の人格に厚みが生まれて、それはそれで娯楽として悪くないはずだ。
また、終盤になって現場が撤退しないようテレビ会議で演説する首相に対して、吉田氏はズボンをぬいで尻を向けて周囲を笑わせる。誰ひとりとして撤退するつもりはなく、的外れな演説を現場からはあきれる声がもれる。
しかし結末で示された手紙において、追いつめられればもうひとりの現場責任者とふたりだけ残って、他は撤退させようとしていた真意が明かされる。ここで首相の演説を回想すれば映画の味わいが増すと思うのだが、そうした視点や情報の提示による印象の変化は描かない。
この映画では、その時々の出来事に人々が反応するだけで、遠くの過去や未来に考えをめぐらしたりはしない。英雄は運命に流されるだけで、人の力を信じる構造の物語ではない。
爆発によって建屋に穴があいたことで注水ができたり、排出計画の遅れでプールから水がもれて4号機の核燃料が冷やされた皮肉も描かれない*2。物事の因果を描かないので、事態に対する有能無能は俳優の演技で表面的な差別化がされるだけ*3。
英雄的な吉田氏だけでなく、障害となる首相の描写も、あまり良くない。
安全委員会の班目春樹氏が天罰の原因として名指ししたように、原子力関係者が責任転嫁する対象として、菅直人氏は便利な人物だった。
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もちろん当時の日本国の最高責任者として、菅氏が結果的にでも重い責任を負うべきことも間違いない。だから劇映画で首相の意図を細かく描かず、現場の視点から障害のように演出することが必ずしも悪いわけではない。
しかし現場に自ら乗りこみ、すでに現場がやろうとしていたことを命じるほど積極的な首相が、海水注水だけ消極的になった心情が映画からはよくわからない。現実は海水注水を強く命じた官邸に対して、出向した武黒一郎氏が停止の意向を感じて勝手に命令しただけだった。映画では架空の出向者が停止命令をはげしい言葉でつたえ、東電本社が吉田氏に停止命令を出すが、首相や官房長官はまったく映らない。
むしろ中途半端で思い切りが足りないことが娯楽映画としては良くない。実名を出さず架空の首相として描くのであれば、はっきり海水の注水停止を指示させても良かった。そこまでしなくても、東京電力から出向した人物が停止指示を出す時にふりかえって、無言の首相を見つめるような演出があっていい。
現場に乗りこんで邪魔になったかのような首相が、いつのまに現場から去ったのかもよくわからず、新たなトラブルでいきなり東京で再登場したのも良くない。出ていく背後で舌打ちする現場スタッフなどを描いても劇映画なら許される。いっそのこと終盤の演説までずっと現場にいつづけて邪魔をするくらいが、映画が描く人物としては一貫性がある。
ここまで文句が多くなったが、実をいえば、おおむね予想したとおりに期待にこたえる映画ではあった。
愛国プロパガンダ的な映画はそれなりに見ているし、予算がつきやすいゆえ映像は見ごたえあることが多い。そうした外国のディザスター映画で、レスキュー部隊を賞揚するタイプに近い*4。
現場を賞揚する映画として、米軍や自衛隊などの軍事組織を優先的に賞賛する傾向の興味深さもある。現実には日本政府が名づけた「トモダチ作戦」*5を、そうと観客がわからないよう米軍の指揮官に口にさせる。原作者が露呈した一方的な米国への思いいれを思うと味わい深い。現場を無視した官邸側の指示でも、ヘリコプターからの散水だけは自衛隊が実行しているためか、吉田氏は「ありがたいけど……」と全否定せず感謝をもらす。
中国が提供した特殊ポンプ車がまったく登場しないことも、プロパガンダとしての方向性が明確で、娯楽として理解できる。
ただし最後の最後、本編ノーカットゆえにそのまま流されたテロップには唖然とした。ここだけはプロパガンダにしても限度がある。
2020年の東京オリンピックは復興のためと称して、福島県から聖火リレーが出発するという。公開された時点でもオリンピックは延期か中止の可能性があったが、今となってはむなしいと思わざるをえない。
そもそも福島県ではなく東京都のイベントだ。他地域の被害を口実にした宣伝にも見えてしまう。さらにいえば福島原発からして、東京都へ送電するために、地方に押しつけられたものだ。
ここで示されているのは二重の搾取だ。せめて上映後に修正するか、搾取を留意する視点を入れることはできなかったのか。
*2:ハリウッド映画ならば、良くも悪くも序盤に4号機のプールが満杯なことを問題として描いて伏線にするだろう。
*3:そもそも英雄視の一因になった海水注入がほとんど水漏れしていたことが原作出版後の研究で明らかになっているが、映画では反映されていない。
*4:好対照のタイプで、韓国映画の『トンネル 闇に鎖された男』と見比べても楽しい。ちょうどGYAO!で3月23日まで無料配信している。 gyao.yahoo.co.jp