法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

性産業における暴力への批判にパターナリズムを見いだす人は、ブラック企業やブラック部活への批判にもパターナリズムを見いだすのだろうか?

一応、性指向は個々人における差異が大きいため、暴力を見いだすことが偏見のあらわれにつながる問題もあるだろう。第三者からは暴力を受けているように見える側こそが、その「暴力」を求めていることもあるだろう。
たとえば話題になっている弁護士の太田啓子氏のツイートに対しては、拘束される側も性的興奮をおぼえているという話もある*1

被拘束者が望んでいるとすると、ひとりでおこなって事故が発生しないかということが、むしろ私個人としては気にかかる。似たような行為が不可能犯罪の真相だったというミステリを読んだことがある。
そういう事例については、危険な行為を個人がおこなう責任などは横において、まず事故が起きた時に通報しやすく安全を確保できるよう、社会から偏見を排することが必要だろう。


しかし一方で、当事者が声をあげないことだけをもって批判や不安視を否定することも、それはそれで危険だろう。
性産業にかぎらず、当事者が主体となって声をあげやすい社会をつくる必要があるわけだが、それはつまり弱い立場の人々の声をすくいあげて支援することにも意味があるということではないか。
たとえばアダルトビデオ産業における強要問題など、当初は業界関係者から否認されながらも、外部からの批判や支援に呼応して弱い立場にあった演技者からの訴えが表に出てきて、業界も対応をせまられている。


ひとつ思いつきをいうと、映像メディアの容量が増えて、撮影もフィルムが不要になった現在、実写作品においては撮影現場のメイキングも記録しておく、くらいの対応はあってもいいのではないか。演技側が納得しているという撮影側の根拠にもなりうるはずだ。
そもそもアダルトビデオにしばしばある演技側のインタビューシーンは、当事者が納得していることのエクスキューズとしての性質もあったと聞く。
もちろんアダルトビデオに限らず、危険や暴力がともなうような実写作品全般において、同じような対処をすればいい。実際にアクション映画や動物映画のメイキングで安全性がアピールされているのを見かける*2
暴力をあつかったフィクションについて、リアルの撮影では安全性が確保できていると期待しつつも、メイキングを見ることで危険のリアリティが失われるという観客の気分も理解できないではない。しかしそれもメイキングの公開方法を選べば対処できるはずだ。
もちろん上記の思いつきは、現場を知らない立場からの意見でしかない。それでも、そういう無責任な観客の立場からしても、あまねく個人の権利が確保されることは願いたいのだ。

*1:しかしリプライには拘束する立場からの無責任な嗜虐ツイートが複数あるため、非当事者としては安全性の確保を不安視せざるをえないことがつらい。

*2:もちろん撮影現場以外でも当事者への配慮は必要で、最近ではアンジェリーナ・ジョリー監督作品での子役オーディションの妥当性が争われたりしている。アンジェリーナ・ジョリーが批判に反撃。「Vanity Fair」の記述は間違い(猿渡由紀) - 個人 - Yahoo!ニュース