法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

意図の有無を確認するだけのガイドラインでも、はたして表現規制と呼べるだろうか?

脅迫に言論で闘わないからと大学をクビになること以上に、表現の意図を説明できなくて編集者にボツにされることが、優先的に批判すべきことなのだろうか? - 法華狼の日記

インタビューをきっかけとしてガイドラインを導入する動きがあってとして、たとえ批判することになるとしても、楠本まき氏とは独立したものになるだろう。インタビューで楠本まき氏が提示する「ガイドライン」は、そのまま現実化したとしても、表現そのものはいっさい制約されないものになるだろうからだ。

約半年前の話題になるが、楠本まき氏がインタビューで提起したガイドラインについて、id:srpglove氏の問いに答えておこうかと思う。


まず、最初の問いについては、当該エントリのコメント欄を読んでほしかった。


制限が少ないに越したことはないという前提で、既に出来上がっている制限を除去するのは非常に難しいけど、わざわざ新たな制限の仕組みを作ろうとする動きに対してはなるべく抵抗した方がいい、ってだけの話では?
脅迫に言論で闘わないからと大学をクビになること以上に、表現の意図を説明できなくて編集者にボツにされることが、優先的に批判すべきことなのだろうか? - 法華狼の日記

下記のように、まさにそうした判断が表現規制反対運動の問題なのではないか、という話を別の人物への返答として書いていたのだ。

ついでに踏みこんでいえば、表現規制反対運動の傾向として“既成事実への屈服”と指摘される問題が、今件の背景にもあるのでは?という可能性を考えています。
基本的に「肯定」はしないし「是認」でもない。しかし規制をしこうという動きまでは反対するが、出版社や政治家によって規制が実際におこなわれる段階になると、不満こそもらしても、規制を撤回させようという運動はもりあがらなくなってしまう……これは個々人の興味関心にしたがって批判の優先度を決める自由とは別個の問題です。

srpglove氏のツイートそのものが、上記の考えの傍証になるだろう。念のため、上記の問題は表現規制反対運動にのみ見られるわけではない。


次に本題の、提示されたガイドラインの解釈をめぐる問いについて。




「ジェンダー」という台詞と、漫画の細部に宿る神 - 法華狼の日記
「インタビューで楠本まき氏が提示する「ガイドライン」は、そのまま現実化したとしても、表現そのものはいっさい制約されないものになるだろうからだ。」

???


https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cab1d5be4b047edf95d101e
「バイアスのかかった表現については「なぜこれを描かなくてはいけないのか」と作家に説明を求めて、(編集部が)納得させられたら載せるし、納得できないものは載せない」

なんで賛同側の人たち、ここを頑なに無視するんだろう……


もしかしてこの部分を、どういう表現であれ編集部を納得させられるような「意図」さえこじつけられればオッケー、という風に解釈してるのか?そんな、本当の意味での意図とは無関係の、ディベートみたいな話なの?

むしろ不思議なのが、編集部を納得させる意図の説明において、「こじつけ」が必要であるかのようにsrpglove氏が読みとっていること。


インタビューを読めば、楠本氏は一貫して「信念」「意識」「作為」を求めている。それがあれば嫌な表現でも「仕方がないな」と「納得」することも表明している。
「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」。漫画家・楠本まきはなぜ登場人物にこう語らせたのか | ハフポスト

その人が本当に信念を持ってそう思っているのであれば、私は嫌ですが、仕方がないなと思うしかありません。でも多分、意識していないと思うんですよ。

だから私は不作為なジェンダーバイアスを、まずなくしましょう、と言っています。

ゆえにインタビューで語られているガイドラインにおける「納得」もまた、作者の自覚が基準になっていると読むべきだろう。
つまり、ガイドラインに照らしあわせて浮かびあがったジェンダーバイアスについて、そう表現した意図を語ることができさえすれば、「こじつけ」などする必要はない。
srpglove氏も、自身がモデルになったと疑わしい作品に対しては、無意識という選択肢を抜きにして確認をとろうとしている。表現は意図なく創作されるものという立場ではないはずだ*1


たとえば小説の校正で、誤認や差別が指摘されたとしよう。
その表現が意図したフィクションであれば直さず通すだろうし、意図せざる誤認や差別であれば修正するかもしれない。それどころか書いた時点では意図していなくとも、指摘された時点で自覚はいやおうなく持つわけだから、そのまま作者は直さず通すことも選べる。
はたしてそのような校正を、表現規制と呼ぶだろうか。
より具体的には、フィクションで血液型性格判断が的中するかのような描写をしたとして、それが疑似科学であることや、就職差別などに結びつくことを編集がガイドラインにもとづいて指摘したとする。
そのような指摘は拒絶するべき表現規制なのだろうか。
創作において助言や質問されるだけでも思考が制約されるといった心情はわかるが、それがそのまま表現規制につながるわけではあるまい。


逆にいえば、表現の「意図」を語ることさえできれば、その意図がどのような思想にもとづくものであれ、編集部は納得してとおさざるをえない。
ゆえに楠本氏のインタビューにおける喫煙規制のエピソードや、そもそもの作風に照らしあわせれば、むしろ表現の制約をとりのぞく提唱とも受けとれる。
以前に私が読んだ楠本氏の作品は、セクシズムやルッキズムやエイジズムやホモフォビアに満ちていて、しかも最終的にわかりやすく批判されるわけですらなかった。主人公やそれに近い登場人物が偏見を内面化して、むきだしの差別で他者を嘲弄までする。

Kの葬列 第1巻 (マーガレットコミックスワイド版)

Kの葬列 第1巻 (マーガレットコミックスワイド版)

Kの葬列 第2巻 (マーガレットコミックスワイド版)

Kの葬列 第2巻 (マーガレットコミックスワイド版)

おそらくインタビュー単独から受ける印象とは良くも悪くも異なる作風だろう*2。しかしミステリタッチの群像劇としても難解に思っていた物語に対して、さまざまな知見を背景に創作していると語られた約半年前のインタビューは、読解の良い補助線になった。最もセクシズムやルッキズムやエイジズムやホモフォビアに満ちている人物の設定が、ひどく残酷な構図ということが理解できて、どのような異端に向きあう物語なのかが納得できたのだ。

*1:srpglove.hatenablog.com

*2:とはいえ『∀ガンダム』以降の富野由悠季監督が、登場人物を殺して盛りあげるアニメをインタビューで批判するようなものと思えば、ありうる話だと理解する人も多いかもしれない。このように実在人物を比喩に用いていいかは悩ましい問題だが。