法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

srpglove氏のいう「お気持ち」がよくわからない

意図の有無を確認するだけのガイドラインでも、はたして表現規制と呼べるだろうか? - 法華狼の日記

不思議なのが、編集部を納得させる意図の説明において、「こじつけ」が必要であるかのようにsrpglove氏が読みとっていること。

上記エントリについて、通知をかねてid:srpglove氏のコメント欄に疑問を書きこんだところ、2回の応答で「これが最後です」と宣言されたので、まず私のコメントを記録しておく*1。なお、転載したコメントでくりかえしたように、私の上記エントリへの応答はまったくないままだった。
ならば本題ではきちんと応答していたかというと、ベテラン作家に対しては能力をなぜ批判できないのかという疑問に対しては、「切り離して行うべき」というドグマを返すだけだった。
小川一水氏の語る「現代では当然のフェミニズム的価値観」の問題点(おまけで楠本まき氏。ラノベも少々) - い(い)きる。

半年遅れになりましたが、楠本氏をめぐるツイッターの問いに対して、一応の応答エントリを書きました。
https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20191103/1572777249


それで、このエントリを読んで首をかしげたのですが……

「“現代では当然の”フェミニズム的価値観」というなら、現代を自分たちの時代として生きている若者が比較的多いはずの「未熟な新人」よりも、むしろベテラン作家の方がそこから逸脱してる可能性は高そうじゃない?

上記はひとつの推論として成立していると思いますが、下記の主張と微妙に衝突していませんか?

小川一水氏の方は、新人賞応募作の話なのでまだ分からなくもないけど、こっちは同じプロ作家たちに対してのお言葉だからね。ここまでゴーマンかまして大丈夫なのかな。

プロ作家ほど意識が遅れている可能性があるのであれば、新人よりも既存のプロに呼びかける楠本氏は、srpgloveさんの主張からすればむしろより妥当ということすらいえませんか?

id:hokke-ookami 氏へのお返事 - い(い)きる。

最初に、あくまでコメントは通知のついでに疑問を書きこんだだけで、貴方が意図の説明において「こじつけ」を必要だと読解したことへの応答がメインです。
メインの争点において、楠本氏の傲慢さの有無は関係ありません。貴方の解釈である以上、言えることは独立して残っているはずです。

小川一水氏も楠本まき氏も、それぞれ「性的不均衡に無関心」であること、「ジェンダーステレオタイプマニュファクチャラー」であることを作家の「未熟さ」の問題として扱っており、それは不当な態度だというのがわたしの主張です。

私が「衝突」と思ったのはそこが問題ではありませんが、作家を「未熟」と見なすことの不当性という観点で語っていたことは理解しました。
なるほど差別的な作品を批判することが不当なのであれば、より差別的であるベテラン作家への批判がより不当におこなわれるといえるでしょう。


とはいえ、その解釈でも貴方のエントリでは反論の根拠不足だと思います。キャリアの長さでも実績でも総合的に「未熟」とは言い難いことと、その作家の作品が特定の基準において「未熟」であることは、特に矛盾とはいえないでしょう。
そもそも小川氏は「未熟な新人」が「性的不均衡に無関心」という事例に悩んでいるのであって、「性的不均衡に無関心」であることが「未熟」だとは表現していないでしょう。もし性的不均衡への関心が成熟度の基準と考えたなら、「現代では当然のフェミニズム的価値観を、未熟な新人の作品にどのていど求めるか」ではなく、“現代では当然のフェミニズム的価値観が未熟な新人の、作品にどのていどそれを求めるか”といった表現になるのではないでしょうか。
くわえて楠本氏も「不作為」といった表現を選んでいて、やはり特にキャリアに応じた成熟度のたぐいとは直結させていないように思います。両氏とも、関心の有無こそを問題視しているのであって、性的不均衡に関心がなくても未熟ではないキャリアの作家が存在しても「かえって、適切な批判が難しくならない?」とは思えません。

楠本まき氏の物言いは他の作家の創作姿勢に対する敬意をあまりに欠いているように見えます

差別的な創作が意図的と想像することと、差別的な創作が無意識だと想像することとで、後者の想像が敬意を欠いているとは断言できないと思います。
また、インタビューなどで差別的な創作が意図的な場合も楠本氏が想定しているだろうことは、応答エントリで指摘したとおりです。

この部分を、特に挑発的だとも傲慢だとも感じないのであれば、わたしに言えることはもはや何もありません。

まったく挑発的でない問題提起も、傲慢さを感じさせない他者批判も不可能だと思いますよ。そう感じるのはしかたないと思いますし、別に異論をはさむつもりはありませんし、そこに異論ははさんでいません。
貴方自身、エントリで「邪悪」という「敢えて強い言葉」を使ったわけですし、他にも下記のように挑発的なエントリは熱心に書いているわけで、それ自体は問題ではありませんよね。
http://srpglove.hatenablog.com/entry/2019/11/03/235557
つまり貴方自身もよくやっている何ら問題もないことを楠本氏もやっている、という印象が貴方の言いたかったことなのですか?

id:hokke-ookami 氏へのお返事2 - い(い)きる。

これが最後です。これで理解できないようなら、わたしにはもはやid:hokke-ookami 氏と意思疎通できる自信がありません。

前回のコメントで書いたことを再掲します。
あくまでコメントは通知のついでに疑問を書きこんだだけで、貴方が意図の説明において「こじつけ」を必要だと読解したことへの応答がメインです。
メインの争点において、楠本氏の傲慢さの有無は関係ありません。貴方の解釈である以上、言えることは独立して残っているはずです。
今回も、貴方が私のエントリに対してツイートした「こじつけ」の必要性について、いっさい理解に資する応答がなされていません。応答しないこと自体は自由ですが、相手がメインとしている部分を無視して最後と宣言して、うまく意思疎通できるものでしょうか。一度も応答していないのに「もはや」とは何でしょうか。

「差別的な作品を批判することが不当」である、などと言った覚えはありません。

私が貴方の主張が「衝突」しているのではないかと思ったのは、新人を対象にした小川氏に対しては「性的不均衡への関心」がベテランほど低いと推測しながら、ベテランを対象とした楠本氏に対してはベテランであるほど批判が当てはまらないかのように語っているかに見えたためです。
なので、楠本氏に対する「大丈夫なのかな」という表現が、対象の影響力による反発が強いだろうという意味の説明で、「衝突」はしていないと理解しました。しかし……

いち消費者がブログで挑発的な書き方をするのと、著名な業界人が同業者に対して挑発を行うのでは、後者の方が(発言者本人にとって)大きな問題になりやすいのは当然でしょう。それを指して元記事では「大丈夫なのかな」と言ったのです

……それならば、挑発と受けとられるような強い批判が、相手が新人でなく同業者ならば批判者にとって問題が起きると案じるのは、それはそれで批判者への敬意が欠けてませんか。
小川氏にしても、相手がアマチュアセミリタイアプロといった弱い立場だからではなく、素晴らしい受賞者として広く送りだす存在として悩むというむねを語っています(https://twitter.com/ogawaissui/status/1157672804419903488)。それを反発が小さい相手として批判対象にするのを「まだ分からなくもない」というのであれば、失礼な話だと思います。
だいたいそんな心配しなくても、今の日本のインターネットでフェミニズム推進的な発言をすれば強い反発が多く返ってきます。一方でフェミニズム反発的な発言をすれば、表現規制肯定派でも表現の自由の擁護者であるかのように受けとられることもあります。
さらに引用が前後しますが……

「経験“値”」「間違う」といった表現は、単純に直線的な基準を前提にした作家の未熟さを意味しているように読めましたが。

……ここで、またよくわからなくなりました。
貴方は「現代を自分たちの時代として生きている若者」と対置して、「むしろベテラン作家の方がそこから逸脱してる可能性は高そうじゃない?」と推測していましたよね。
そして楠本氏は「環境」を想定しています。重ねた年齢でのみ蓄積される経験ではなく、時代に応じて変化する周囲との関係性もかかわる以上、やはりキャリアに応じた成熟度のたぐいとは違うのではないでしょうか。


また、話題が前後しますが……

作品内容が思想的に正しいかどうか(「現代では当然のフェミニズム的価値観」が本当に絶対的に「正しい」のかはさておき)は作家としての未熟さ=能力の低さとは別の問題であると言っているのです。作品の思想を批判するなら、部分的にであっても作家の能力の高低ではなく、そこから切り離して行うべきです。

貴方の定義する「作家の能力の高低」ではないとみなせば「批判」してもいいなら、それは言葉遊びになりませんか。小川氏と楠本氏による「性的不均衡への無関心」への批判そのものは自由なのでしょう? ならば「無反省」や「偏見」といった批判をおこなっていたこと自体は問題ないのですよね。
ついでに小川氏はグラデーションを想定していることは確かでしょう。「面白さ」と「性的不均衡」は独立して評価しています。さらにいえば関心さえあれば逆にひっくりかえす物語をも想定しているようにも読めます(https://twitter.com/ogawaissui/status/1157672068843892736等)。


逆に、読者を離しかねない思想性が物語にあらわれていることを、作家の能力の高低と完全に切り離すことは可能でしょうか。少なくとも、引っかかりをおぼえるような思想によって読者がはなれることがあると、貴方も自他の事例で認識しているはずです。


http://srpglove.hatenablog.com/entry/2019/10/28/234549

どうしてもこの「天狗」の一件が、小さいながらも無視できない引っかかりとなり、わたしは結局それ以来アリュージョニストを読むこと自体をやめてしまいました。

アリュージョニスト作中の倫理観に関する違和感を表明する記事です。わたしとは全く違う理由ですが、執筆者の方もアリュージョニストを読むのをやめてしまったようです。

女性という約半数の読者が途中で読むのをやめさせかねない、場合によっては肖像権の侵害などで出版が止められるような作品に対して、貴方は作家の能力の高低ではないから新人賞に通せというのでしょうか? そこで作家と出版社が負うリスクは貴方が背負ってくれるのでしょうか?
貴方は上記エントリにおいて『幻想回帰のアリュージョニスト』の思想と作家の能力を完全に切りわけて記述できていますか? 作家の能力ではなく作家の誠実さを問いただしたということでしょうか? ならば小川氏や楠本氏が、自分たちは作家の能力ではなく作家の誠実さを問うたのだとツイートやnoteで明言すれば貴方は納得するのでしょうか?


ここで少し別の話として、単純に読者の多寡で考えると、仮に市場が差別的な思想の読者ばかりであれば、差別的な作品のほうが当面は商業的に成功するのかもしれません。
だから将来についても語っている楠本氏の問題提起は、読者への信頼も込みで読むべきだと思います。それに、そのような現在の市場への適合率を作家の能力の唯一の基準とは貴方も考えないでしょう?


なお、「これが最後」と宣言され、他方で私のコメントも相当の長文になりましたので、特に願われないかぎりコメントは今回を最後といたします。何らかの言及をおこなう場合は、ブログで書いてidコールをおこなうつもりです。

ちなみに、srpglove氏がブログの「お気持ち」というカテゴリに入れているエントリは四つしかない。
お気持ち カテゴリーの記事一覧 - い(い)きる。
私への応答エントリふたつに加えて、『JKハルは異世界で 娼婦になった』という小説について「本音で語る」と宣言した批判エントリと、私も言及したsrpglove氏が小説のモデルにされたと訴えるエントリのみ。
なぜ私自身の気持ちは語っていない私への返答を「お気持ち」というカテゴリに入れたのだろうか。srpglove氏の私に対する主張が「お気持ち」でしかないという告白のつもりというわけでもあるまい。

*1:転載のため、すべて引用符を引用枠にあらためた。