法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「相関しているならすべての統計が捏造だ、という極論を述べたブログ」という嘘を書いた山形浩生氏

山形氏が下記のようなエントリを書いていた。
統計の不備と、各種統計の「相関」の話 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

統計の信頼性について疑問を呈した柳下毅一郎のツイートを、山形は一蹴した。が、その後勤労統計の集計方法の不備が露見した。ここから、この統計は捏造であり、それが相関しているならすべての統計が捏造だ、という極論を述べたブログが出た。

これは困った代物だとぼくは思う。一かゼロかの非常に極端な見方をしているせいで、非常におかしな極論になってしまっている。それをここで、少し説明しよう。

これが私の書いた下記エントリの要約のつもりらしいということに驚かされる。


私自身で結論部を読み直しても「一かゼロかの非常に極端な見方」のような表現はいっさい使っていない。
山形浩生氏が統計の捏造の困難性だけをもって経済指標の信頼性を絶対視していたことのメモ - 法華狼の日記

捏造が困難であるということは、その捏造は大規模におこなわれ広く責が問われるものだろう。そしてその悪影響の範囲もささいなものではなくなる。

そういう意味では、統計捏造の困難性を主張した山形浩生氏の見解が正しければ正しいほど状況はひどいのだ、と覚悟しておく必要がありそうだ。

どのような「国語力」があれば「すべての統計が捏造だ」という文意が私のエントリから読みとれるのだろうか?


こうして私は面食らっているのだが、一方で山形氏は私のエントリタイトルに面食らったという。

まずこの法華狼のブログ記述で、ぼくが統計を絶対視している、という題名には面食らった。統計が「絶対」というのが、そもそも意味不明だからだ。

山形氏も引用しているように、柳下毅一郎氏の「リフレ派の方々は、なぜ財務省の出す経済指標は捏造されてないと信じられるのだろうか」というツイートに対して、山形氏が反駁するツイートで「夜郎自大な全能感に陥る」と表現した。それほど強い言葉を用いなければ、私も「絶対視」という評価はおこなわかっただろう。
むしろ対象の文章から少なくとも明示的には読みとれない「一かゼロかの非常に極端な見方」を見いだしているのは山形氏だ。そのような反応をするという問題において、山形氏は悪い意味で一貫性がある。


前後するが、不適切な統計に対して私が「捏造」と考えたことについても、山形氏による要約は誤りだ。

柳下毅一郎は、統計を疑問視した。
そして実際に統計集計に不備が見つかったから、統計はまちがった捏造である。
よって柳下が正しかった。

法華狼は、何か統計の集計(そしてその補正)に不備があった、というのを見て、つまりその統計がまったくの捏造だ、という結論にとびついた。

たしかに私はエントリでとりあげた不適切な統計について、捏造によるものと考えたし、結論部でそう表現した。
しかし山形氏は、結論部の直前に別の記事を私が引用したことを無視している。そのため誤った要約になっているといわざるをえない。

このような不適切な処理が組織的におこなわれていたという報道もある。
雇用保険、数十億円超を過少給付 勤労統計問題の影響で - 共同通信 | This Kiji

また厚労省の担当者が2004年に本来とは異なる調査手法に変更した後、担当者間で15年間引き継がれてきた可能性があることも判明した。調査手法を正しく装うため、データ改変ソフトも作成しており、厚労省の組織的な関与の有無も焦点の一つだ。

ちなみに山形氏も「それでも一応は調査は行われ、それに基づいた集計が行われている。まったんくの出鱈目ではない」*1「統計に不備があったのは事実。でも、それがまったくの捏造だったということではない」と結論づけつつ、「標本調査なのをごまかそうとしてそれを三倍したりしてたとかいう話」が出ていることに言及している。
ただの個人の失敗などの意図しない結果として不適切になったのではなく、そこに意図が介在していたのであれば、「捏造」という表現は適切なものだろう。

*1:「まったんく」は原文ママ