法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『私の少女』

貧しい漁村でひとりだけの若者ヨンハは、継子ドヒを虐待しても村人から見て見ぬふりをされていた。
そんな漁村の新たな警察所長として、首都ソウルからヨンナムという若い女性が赴任してくる。
ヨンナムはドヒを守ろうとするが、やがて隠していた過去から窮地に立たされることに……


さまざまな社会派テーマを組みこんだ2014年の韓国映画。チョン・ジュリ監督はこれが長編デビュー作で、脚本もつとめた。
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まず前半の貧しい漁村の姿が親近感ありすぎた。貧しい社会の肌触りが細部まで緻密に構築されている。
ヘルメットもかぶらずバイクを走らす老女の現役ぶり。中年のヨンハが若者あつかいされる平均年齢。本当に若い公務員も新人か訳ありだけ。村外へ出る力がない子供は少数いるが、それゆえドヒはいじめの標的となる。
漁業に必要な労働力は、より貧しい外国から買いたたく。それがヨンハの力の源泉となると同時に、ヨンナムに対する弱点となる。


……そうした悪い意味で親近感ある情景がつづくのだが、それが美しい映像として成立している撮影技術に感嘆する。
雨でけぶる漁村に向かう冒頭から雰囲気があるし、虐待されたドヒが孤独に立つ姿も構図が絵になる。ヨンナム宅に保護されたドヒの幸福な姿は、さらに美しく、ダンスも軽やかだ。
一方、漁船の男たちが微動だにせずヨンナムをじっと見るような、何の変哲もない日常の風景で居心地の悪さをかもしだす演出力もある。


後半に入り、ドヒを保護していたヨンナムは苦しい立場になっていく。さまざまな映画情報で明かされている設定がかかわっているのだが、劇中で明示する場面は意外と遅い。
このヨンナムの設定こそが映画の主軸ではあり、だからこそ、かぎりなく共依存に近い女性ふたりのドラマとして完成した。


しかし前半の貧しい共同体におけるサスペンスに強く心をひかれた者としては、その事態の進展を成立させる基盤としても必然的と感じた。
もしヨンナムが男性であれば、古典的な保護者の男性と庇護下の少女という構図になる。もちろん現代では幼いドヒと正面から恋愛する展開はありえない。最初からドヒに親身に事態へ介入するか、ドヒと距離をとって事態を収拾するだろう。そして強引にすばやく片付けるか、根本的な解決へ向かったことだろう。
強力な男性所長であれば、虐待から保護することは当然として、生活においては一線を引いて、すぐに当局に通報しながらヨンハと戦う展開になる。外国人労働者を失った漁村は先行きが不透明になり、つきはなされたドヒは孤独をかかえ、共同体をひっかきまわした男性所長は別の地域へ飛ばされるという、爽快感と苦さをあわせもつ股旅物となる。柔軟な男性所長ならば、漁村の問題を軟着陸させようと動きまわって、外国人労働者や村人の良心派を結束させ、新たな共同体へと回復する未来を描く人情劇になる。
しかしヨンナムは偏見から隠れるしかない立場だった。1年間の左遷をやりすごすため、大きく事態へ介入することもできなかった。少女をつきはなさなければならない立場なのに、つきはなさなければならないことを隠さなければならなかった。だから近づかないようドヒに理解させることも、部下と協力することもできなかった。社会の偏見が中途半端な対応をせまり、事態を悪化させた。


ヨンナムとドヒは秘密をかかえて舞台を降りていく。それは社会から逃げることであり、社会を捨てることでもある。
結局のところ、この物語では共同体の問題は解決しなかったし、事件のすべてがあばかれることもなかった。
それでもふたりだけは互いを深く知り、孤独ではなくなった。それだけが冒頭から変わったところだ。