法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

カップヌードルのCM「アオハルかよ。」の第2弾『アルプスの少女ハイジ』を見て考えた私案

なぜ歴史ある日本語名の「楓」じゃないのかとかいう以前に、二次創作としても原典の構図を尊重していなさすぎではないか?という疑問がぬぐえない。
http://www.cupnoodle.jp/hungrydays/heidi/
なぜハイジがペーターに恋して、クララに劣等感をいだく立ち位置にならなければならないのか。
自然児としてのハイジがクララを導くTVアニメの構図をあえて逆転したわけでもないし、カソリック校でクララ先輩に教えられた信仰が恋心を後押しするような原作の構図とも違う。そもそもペーターは原作でもTVアニメでもハイジに恋されるような存在ではなかったはずだ。
ボーイミーツガールというCMの枠組みにハイジとペーターの名前だけ当てはめ、主人公をゆりうごかす便利な先輩としてクララのお嬢様という設定だけ利用したとしか見えない。
原作の舞台を現代日本におきかえてもいいから、青春というCMテーマは基本的に原典から抜き出せばいいのに、と思わずにいられない。


たとえばTVアニメを意識するなら、車椅子のクララが田舎から転校したハイジに遅れた勉学や都会の文化を教えている導入はどうだろう。
やがてハイジがスポーツで身体能力を発揮して部活動のエースとなり、ペーターのような少年からいいよられたりする。それを校舎の窓から見おろすクララ。
ハイジに教えることがなくなり、車椅子を押されるだけの立場に劣等感をいだいたクララは、無理して歩こうとしはじめる。

「私は……ハイジのために立ちたい」
「クララの体はクララのものだよ」

ここでハイジはクララの前にひざをつき、初めて同じ高さの目線で向きあう。
しばらくして陸上競技場でスタートラインに立つハイジの姿があった。走り出すハイジ。同じくレーンでスタートの合図を待つクララ。ピストルの音で走りだす車椅子。
競技が終わった後、駆け寄ってたがいのメダルを見せあい、ハイジとクララは笑いあう……


……といったCMでも良いのではないか。せっかく日清は東京五輪のオフィシャルパートナーなのだし*1、TVアニメのクライマックスも現代的に再構築できる。

クララは歩かなくてはいけないの?

クララは歩かなくてはいけないの?