このエントリは、動詞「まなざす」の意味・用法や登場した経緯や背景などについて解説したものではありません。
とりあえず思いあたる範囲でいくつか使用例をあげてみる。
TAB イベント - 「まなざす、みせる」展
沖縄がどのようにまなざされ、捉(とら)えられたか。それぞれの視点の向かう先に、何を見たのか。岡本太郎が沖縄を「日本をながめかえす鏡」としたように、本展が「沖縄をながめかえす鏡」となり、沖縄の過去と現在、未来を考える機会となれば幸いです。
このように「見る」と「見られる」の関係性を重視した美術展でつかわれたりする。
それなりに信頼がおかれているWEBメディアとして、「SYNODOS」関連でも見つかる。とりあえず書籍としてタイトルや章タイトルにつかったものをふたつ。
新宿二丁目の文化人類学: ゲイ・コミュニティから都市をまなざす
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日本の難題をかたづけよう 経済、政治、教育、社会保障、エネルギー (光文社新書)
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ざっくりいえば、実際に見ているかどうかではなく、視線が向いて見ることができる状態になること、つまり鑑賞する主体になりうる立場にあることを指して「まなざす」とつかっている。見る側が主観的には見ていなくても、見る見ないを自由に選べる立場となっている。そんな一方的な関係を告発する言葉といった感じか。もちろん、ただ一方的なだけではないが。
この時に見られる側は、見る側が実際に見ていることは証明できなくても、見ることができる状況にあることを証明すればいい。1956年の用例も「まなざしは、単に、まなざされたものを客体として成り立たせるものに過ぎない」という見られる側の視点だ*1。
冒頭のdlit氏のエントリでも、「そのままでは動詞として用いることができない」に分類される言葉は、意識的な動きを指しているものが多いようだ。そして「動詞として用いることができる(そのまま活用させることができる)もの」に分類される言葉は、意図せぬ動きや状態を指しているものが多いように感じる。状態をあらわしながら「用いることができない」にdlit氏が分類している「立ち聞く」も、古い用法が大辞林に掲載されている。
立ち聞く(たちきく)とは - コトバンク
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立ったままで聞く。 「軽の市に吾が−・けば/万葉集 207」
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物陰に隠れて他人の話を聞く。盗み聞く。 「来ざりけるをとこ−・きて/伊勢 27」
言語学はよくわからないが、「まなざす」は「眼差し」の「差し」を存在動詞と解釈したようなものだろうか?