法華狼の日記

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『火垂るの墓』や『はだしのゲン』に比べれば、まだ『この世界の片隅に』は“よくある反戦アニメ”に近い

まだアニメ版の『この世界の片隅に』は観れそうにないが、産経記事*1の監督コメントで『火垂るの墓』が好意的に言及されたこともあって、とりあえず原作準拠で考えをまとめておく。
【スクリーン雑記帖】「この世界の片隅に」をめぐる“国旗”論争 政治的意味合いを回避したあるセリフとは(1/4ページ) - 産経ニュース

「この映画が世の中に受け入れられるかが試金石。今そういうことをやっているのは(1988年に『火垂るの墓』などを発表している監督の)高畑勲一人だと思うんですよ」


まず、戦時下の日常シーンを楽しげに描いていることだけで“よくある反戦アニメ”とは違うかのような論調があることには、違和感しかない。
『この世界の片隅に』は単なる反戦アニメーションではない | アニメ、漫画、映画、音楽……いま旬のサブカルコンテンツを徹底批評!

「戦争反対」と声高に主張されても、心に響かない時がある。

小学校から高校にかけて、いろいろな映像や映画を教育的に見せられたこともあったような気がするが、正直に言うと心に深く響くことはほとんどなかったし、あまり記憶にも残っていない。

 だから、映画『この世界の片隅に』も、CMで見た限りではよくある「反戦」の映画なのかと思って、あまり興味が惹かれなかった。

あなたが『この世界の片隅に』を観なくてはいけない5つの理由 | FILMAGA(フィルマガ)

市井の人々が声高に反戦を叫ぶ姿ではなく、太平洋戦争の影が日々の生活に暗い影を落とす様子を綿密に描くこと。この世界の片隅に』は、何よりもまず良質のホームドラマとして構築されている。

文部省*2が推薦するようなアニメ映画はいくつも見たが、少なくとも原作漫画と同じくらい、日常シーンを美しくつみかさねていく作品は珍しくない。それが失われることで戦争への嫌悪をもよおさせる構成も定石だ。子供向けに戦場とは距離のある子供視点で導入することが多く、しばしば制作リソースも限られているため、悲惨な戦闘シーンが延々とつづくような作品は滅多にない。
たとえば『うしろの正面だあれ』*3は、下町で生きる少女の日々の物語だ。物資供出や天皇崇拝といった軍国化する世相だけでなく、いきいきとした子供たちの遊びも描かれる。日中戦争が「侵略」と明言されるが、それは戦後視点のモノローグにすぎず、当時の主人公は認識していない。
反戦的なメッセージにしても、教育的なアニメ映画で実際に台詞として語られたことは、あまり記憶にない。むしろ教科書的な脚本で、淡々と情景をつみかさねていく真面目な作品が多いくらいだ*4


そうした作品で娯楽性に問題があるとすれば、事実に制約されることで、ドラマチックさに欠けることが要因だろう。
歴史をつたえる目的の作品が多いので、どうしても個人のドラマとしては描きにくい。題材にした実在の人物が、必ずしも娯楽になるようなドラマチックな体験をしているとも限らない。危機や異変を間近で目撃しないとドラマチックになりにくいが、そうした体験をすると生存して証言することが難しくなる*5
たとえば『うしろの正面だあれ』では、疎開したことで生きのこった少女の自伝にもとづくため、東京大空襲シーンは説明的な描写と、遠くの出来事として目撃する場面があるだけ。戦争らしいドラマチックな場面というと、戦闘機による機銃掃射くらいだ。
ドラマチックな体験をした個人にフォーカスを当てる作品もあるが、それこそ個人の偉業をつたえるため駆け足になりがちで、娯楽的というより説明的すぎると感じることが少なくない*6


よく具体的な反戦アニメとして比較されている『火垂るの墓』と『はだしのゲン』は、むしろ特異的に娯楽として完成されている。
火垂るの墓』の主人公は、現代の観客からは共感しやすいがゆえに、同時代を生きぬくことができなかった。
はだしのゲン』の主人公は、戦前戦後を通した社会問題を告発する存在として、たくましく生きている。
この世界の片隅に』の主人公も、同時代に実在すれば特異*7だからこそ、現代の読者からは愛着をもてる。
主人公の特異性で娯楽性を獲得したという意味では、3作品は共通しているとすらいえる。


しかも下記の匿名記事で指摘されているとおり、『火垂るの墓』と『はだしのゲン』は物語の構造でも“よくある反戦アニメ”から逸脱している。
「火垂るの墓」って主人公が反戦思想を語るシーンがあった?

火垂るの墓』って主人公が反戦思想を語るシーンがあった?

主人公の男子はむしろ愛国少年だった。彼は政府や軍部を批判しなかったし、日本の勝利を信じていたので、けっして反戦思想を語ったりしなかったと思う。

つけくわえるなら、その主人公を制作者はつきはなし、かなり冷徹に描いている。そうでなければ、たとえば主人公が食糧を盗む場面で、もっと同情的にカメラを寄せたろうし、主人公の罪悪感も描いたはずだ*8
そもそも死者の回想として導入する時系列からして他に類を見ない。戦争の開始と終結が、主人公の危機や救済と同調していないことも、反戦アニメらしからぬ物語構造だ*9
日常を描いてから戦災で破壊する『この世界の片隅に』は、比較的に素直な構成といっていい。ディテールをそぎおとして2時間ドラマ化することもできたくらいだ*10

漫画『はだしのゲン』についても言っておきたい。主人公・中岡元が反戦思想を語るとき、それは自身の経験に基づくことが多かったはずだ。

父親に反戦思想を教えられたゲンがそれに感化されるのは当然のことなのだし、そもそもゲンはまさしく戦争の被害者として辛酸を舐めてきた。

これはまったくそのとおりで、主人公とその家族は、「声高」にメッセージを語る存在として成立していた。なぜ主張するのかという動機から、それを主張した時の周囲の反応まで、物語で克明に描かれている。
いわゆる説明台詞が不自然になるのは、その世界においてその人物が発しそうにない言葉を、物語の都合で語らせるからにすぎない。説明的な台詞を発する状況が設定され、そう語ることができるキャラクターが配置された場合、その説明台詞は自然なものとなる。
そして主人公と家族があらがうのは漠然とした戦争だけでない。自国をふくめた具体的な加害であり、個人を戦争にかりたてる社会構造である。

はだしのゲン』もアニメ映画の方はそれほど反戦思想を語るシーンってないよね? ゲンは明るくて元気な子供だ。

これもまったくそのとおりで、原爆投下の物語を重視して映像化され、戦前戦後の日本を批判するようなメッセージは後退していた。アニメ映画の続編『はだしのゲン2』は、さらにオリジナル性を増して戦災孤児の物語となっていた。どちらもつらい戦時下や戦後を、笑いとばすように生きるキャラクター性を抽出した作品として、それはそれで悪くない作品ではあった。
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そして特異性をまるめたがゆえに、匿名記事も指摘するように『この世界の片隅に』に近しい印象をもつ娯楽作品ともなっていた。つまり『はだしのゲン』から普通の反戦アニメに近づくと、そこに『この世界の片隅に』があるわけである。

*1:「政治的」をめぐる奇妙な解釈は、伊藤徳裕記者の記事だから意外ではない。以前に批判したが、『南京!南京!』の記事は本当にひどいものだった。『南京!南京!』を公式に見る手段はあるのに、わざわざYOUTUBEで見たという産経新聞の映画レビュー - 法華狼の日記

*2:文科省

*3:片渕須直監督が画面構成を担当した。

*4:小林治監督や四分一節子監督のようなベテランが手がけている作品が多いので、ビジュアルこそ最新流行でなくても、映像作品としての水準はけして悪くない。

*5:だから半自伝的な小説『火垂るの墓』は、作者自身である兄を死なせるという虚構をとりいれて、物語として成立させた。

*6:『ジュノー』 - 法華狼の日記等。アニメではなく実写だが、『不屈の男 アンブロークン』 - 法華狼の日記もそのきらいがあった。

*7:当時は珍しく少人数家族なので妻に負担がかからないし、夫や義父の男女観も先進的。苦しい生活を楽しめることも、軍関係者という家族の立場があってこそ。そんな家族のなかでも、主人公がさらに特異だったことも終戦時にあらわになる。

*8:「WEBアニメスタイル」の編集長コラムで『火垂るの墓』を評する一連の記事でも注目されている場面のひとつ。WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第488回 『火垂るの墓』の庭からの視線

*9:そもそも高畑勲監督は自作に反戦の力はないと何度も言明している。スタジオジブリの小冊子『熱風』7月号の「憲法改正」特集部分がWEB公開 - 法華狼の日記

*10:『この世界の片隅に』 - 法華狼の日記